HSPかもしれないコロナ禍に疲れた女
タイトルにもある通り、私はHSPかもしれない。そうなのかもしれないなと数年前から思っていたがこのコロナ禍になってますます強くそうなのだろうなと確信を得てきた。HSPは病院にかかって診断してもらえるものではなく、自己診断するものらしいのでなかなか自分で『私はHSPです!』というのには勇気がいる。
いやいや、気にしすぎでしょ、と言われてしまえばそこまでなのかもしれないけれどその気にしすぎこそHSPの特徴らしい。
家族には理解してもらえないし、周りの友達にも誰にも理解してもらえない。すべて私の怠惰の理由にされてしまい、周りに期待をしなくなった。そもそも勝手に期待する自分が悪いことがわかった。理解してもらえるかもしれないといった甘い希望を徐々に捨てていきたい。
わたしが自分で自分をそうなのかもしれないと思う理由である自分の気にしすぎてしまうことをつらつらと今日は書こうと思う。
もともと災害や病気などに人一倍神経質なわたしは高校の時、SNS上でミサイルが飛んでくるかもしれないというニュースを見た時は学校を休んだし、次の日に記録的な台風が来るかもしれないと言われれば食糧を買いに行き、お風呂に水を貯めるような人間だ。このコロナが流行るかもという段階から怖くて怖くて、まだみんながマスクをしていないときからマスクは絶対にして、首から下げるやつをしばらく下げていたし(あれは本当に意味がないらしい)、アルコール消毒を異常なほどまでにし、買ってきたものすべてを消毒シートで拭く、一日の最後に家の中の手が触れる部分や浴室、洗面所も消毒しないと無理、という風になっていた。文字にすると異常だと自分でも思うけれどしないで後悔するよりも、できることは1でもした方がいいと思ってしまう。
一回目の自粛期間が終わり、少し日常が戻ってきたとき、これらの異常な危機感も少し緩み、人より少し気にするレベルになっていた。
でも最近家族がコロナかも、という時期があった。デルタ株が流行しだした時だった。同じ部屋で寝ていた私もそうかもしれない、ということになった。私にもその家族にも熱があり、二日後にPCR検査を受け、二人とも陰性だった。まさか自分がPCRを受けるとは、と思った。普通ならそれで、ああ、ただの風邪かよかった。となるのかもしれないけれど丁度その時に綾瀬はるかさんのコロナ陽性のニュースが出ていた。陰性がでてから再度PCRを受けその後陽性、というもので、それを知ってしまっていた私は心配で心配で家族に二日後、再度PCR受けたいと頼んだ。結果は陰性だった。
一度、一番身近な人がコロナかもしれないとなってからの私は以前以上に神経質になってしまった。部屋からも出れなくなり、家族と一緒にご飯を食べることも怖い。自分が使った後の浴室、洗面台は、トイレは必ず消毒するし、何より外出が怖くなってしまった。消毒液やアルコールシートがないと不安に襲われるのでそれを買いに行くときは仕方なく外出するけれど、尋常ではないほど汗をかくくらい緊張してしまう。毎日こんな様子なのでストレスで夜になると必ず微熱が出るし夜眠れなくなった。朝にならないと眠れなくなった。
コロナワクチンは二回接種済みだった。けれどもコロナワクチンに関しても色々な情報が飛びかいすぎて打つ前と打った後も大きなストレスだった。死ぬかもしれないという情報をみて今も死ぬかもしれないという恐怖がずっとある。調べてもいいことはないけど、知らないことのほうがもっとよくないと思い、結局調べてしまう。
いよいよ外に出れないのはやばいと思い徐々に外に出れるようにならないと、思って外出してみるも罪悪感と心配と後悔で死にそうになった。ついには先日久しぶりのバイト中、たくさんのお客さんと触れ合うことの怖さとここで感染したらどうしようという恐怖から涙が止まらなくなり、パニックになって早退。パニック症候群のようになってしまった。
自分がおかしいのか、それとも私をおかしいという周りがおかしいのか、この恐怖はどうしたらいいのか、わからなくなっている。
ウイルスは目に見えないし、わからない。知らない間に体の中に入ってきていて、無症状の場合もあるし、知らない間に感染していて、周りに感染させている可能性がある。だから怖い。もしも自分が感染していたらと思うと涙が出てくる。
(ここまでかいておいてなんですが、コロナに感染することが悪いと言いたいわけではないし、そんなことは微塵も思っていない。ただ自分がなったときや身近な人がなったときに怖いという私の恐怖心です。)
このコロナ禍において周りとの価値観にも同じように苦しめられてしまっている。海外の人が以前ならマスクをするのはおかしいと考えていたように同じ日本人でも様々な価値観や考え方がある。私のことをおかしいと思う人は多いと思うし、逆に私は今このご時世でマスクをしていない人の意識を理解できない。全く知らない人との価値観の違いは理解できないで片づけれるけれど、身内との価値観や考え方の違いとなると話は変わってくる。
だいぶとタイトルから逸れてしまっていたように思うけど、HSPかもしれない、生きづらい、苦しい、と思っていてそれを一番理解してほしい家族、友人にいっても理解してもらえなかった。
夜眠れないから朝起きれない、でも夜眠れないのはいろいろなことを考えてしまうから。部屋の電気は眩しいからできるだけ消しておきたい。毎年終戦記念日のシーズンはテレビを見れない。全てを消毒しないと安心できない。怖いから一緒にご飯を食べれない。遊べない。少し咳がでるのが心配。ニュースを見るだけで疲れて落ち込んでしまう。など、全部私の気にしすぎで片づけられて、大げさだと思われてしまう。思われてしまってはそこで終わる。
本当に疲れた。価値観や考えかた、HSPなどのことを理解できないのは仕方がない。理解できない人を理解できないのと同じだと思う。でもなぜそれを否定するのかなあと思う。家族や友人のいう大丈夫も気にしすぎも確証のある言葉ではなくて個人の思う言葉で、そこを信じろといわれても無理だった。それに安心させるための優しい大丈夫ではなくて、呆れている、ああまた言ってるよといううんざりとしている大丈夫だった。
理解してくれとは言わないし、してもらおうとも思わないのに。なぜ人は知らないものや理解できないものを排除しようとするんだろうと思った。
これからどうやって生きていこう。そろそろ心が限界なのかもしれない。疲れたなあ。生きることも毎日を過ごすことも疲れた。私がいうネガティブな言葉は雑音なのかもしれないけど自分が毎日を生きるためのSOSだった。
バイトにもいけない、外にも出れない、理解もされない、否定される
どうすればいいだろう。みんなどう生きているんだろう。書いていてもっとわからなくなってきた。どんどん私はみんなから異常者として扱われて、本当におかしくなっていくんだろうな。と思う。
ここまで読んでくれた人はいるのかな。いないだろうな。ごめんなさい。おやすみなさい。