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秘密を教えてもらえる大人
出逢う人それぞれに対する自分の感覚を、大事にしたいと思ってきた。
どんな学校を出ているからとか、どんな資格を持っているからとか、
そんなことで世界を狭めたり、マウントをとったりとられたりという、つまらない世界にはいたくないな、と感じていて、
だけれど、それはこの世の中にはあるから、対処しなくてはならなくて、
つまらないな、と思う。
きちんと基礎がなければ楽器を奏でてはいけないのか、といえばそんなことはない。感じるままに踊ってはいけないのか、と言われればそんなことはない。ちゃんと習っていなければ、絵を描いてはいけないのかと言えば、そんなことはない。
ただ機会に恵まれなかったことや、気づきに時間がかかることなど、本来の人間性や才能は、肩書きとは全く別のところにあると思っている。
自分より上か、下か。
それによって態度を変える人を見ると、とても虚しくなる。
どうしても相手を負かすようなこと言って、自己承認欲求を高めるような人や表現には距離を置きたい、と思ってしまう。
そんな根拠のない、一時の満足なんて、とても儚いものに思える。
だから、心の純粋な方の文章をnoteで読むと、心が洗われるような気持ちになって嬉しいのだなぁ、と感じる。
そんな中、noteのある記事に、とても納得してしまった。
自信のない人間を観察すると、弱いものを征服したい、と思うように人を動かしたいという力への憧れを持っていることが多い。
という内容だった。
とても思い当たることがあり、ため息をついた。
療育の現場にいた時、臨床心理士さんがいた。
臨床心理士は、悩みを抱えた方々にも職場の人間にも頼りにされる、専門性の高い、なくてはならない素晴らしい仕事だ。
現場では、数値を出して読んだり、薬についての知識など、彼女にしかできない仕事がたくさんある。
とても、心の温かい人だった。
人を許せる度量があり、その意味では本当に尊敬に値する方だった。
しかし、人を依存させてしまう。
依存するように仕向けてしまうのだった。
「あのお母さんには、私がいなければダメ。彼女を受け止められるのは私だけ。」
依存する人をたくさん作った。
無意識に使っているトリックのようだ。
「自分は修士課程を終えていて、公認心理士も取ったのだから、
私が理論で説明している以上、他のことは必要ない。」と言う。
この世の中は、理論では片付けられない「必要ないと思われていること」で満たされている部分もあるのだけれど・・・。
理論は、知った上で噛み砕いて実践するから意味があるのではないか。
理論を立証するために考えるという行為は、こういう場合は当てはまらないのではないか。
自己承認欲求の強い彼女に、誰も余計なことは言わなかった。
「さすがですね。」「すごいですね。」という言葉をかけるだけ。
「すごいですね。」という言葉には、何か魔力があるのだろうか・・・。
私は少なからず、感じてしまっていた。
たまに、自分より弱いものに高圧的になる彼女の一部分を。
自分の価値観が認められるべきであるという態度を・・・。
「それは、あなたのエゴです!そんなことをいうのは、あなたらしいですね。」
という言葉を聞いた時、自分のことではないのに、何かが刺さった気がした。
断定的な言葉に、ガラスが刺さったような痛さを感じた。
エゴはエゴだったとしても、数値が何かを語っていたとしても、
あなたらしい、というあなたらしさを知るほど、その人を知っているとは思えなかった。
辛いことをたくさん乗り越えられて、心理を勉強された方は多いが、彼女もその一人だった。
癒えていない傷や自信のなさの裏側に権威的な態度があるのだとすれば、本当に悲しい。
専門性という、武器にしてはいけないものを武器にしてしまったから。
相手がかけて欲しい言葉は、その言葉でないことだけは確かだった。
弱っているのだから。
誰かに頼りたくて、泣きたい気持ちを抱えて毎日を頑張っている方だった。
(誤解のないように、臨床心理士の方々は、素晴らしい経験と勉強を積まれていて、このようなことは異例なことの一つだと思う。)
人と人が対等な関係でいることの難しさを感じた事件だった。
同時に、知的謙遜についても、考えさせられた。
人生経験の豊かな人は、自分を大きく見せようなどとしないから「すごい」のだ。
歳を重ねても、教えてもらう立場でいたいなぁ、と改めて感じた。
私は、本当に知らないことだらけの人間だから、知ることが楽しいのは幸いなのかも知れない。
すごい、なんて間違って言われようものなら、「何が?何が?」と聞いてしまうだろう。
そして、そんな機会もない。
純粋な子どもと向き合っている時、救われるような気持ちになる。
子供に教えられることは、とても多い。
子どもは、大人の肩書きなんか知らないし、勉強している内容なんか知らないし、
こちらに正直な反応を返してくれる。
私が「どんな大人なのか?」だけを感じてくれる。
正直な反応を返せない子どもには、大人による足枷があるのだろうと、寂しくなることがある。
「秘密を教えてあげようか?」と思われる大人になりたい。
無駄なこともしながら、回り道をしながら、色んな人に会いながら、解釈を広げていくことを学びたいなあ、と思う。
同じ高さの目線で、この人になら秘密を教えてあげてもいいかな?と子どもたちに思われたい。
*美しい絵がみんなのフォトギャラリーにあり、使わせていただきました。
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