白杖で歩く私が道で出会う愛すべき人々⑵ [走りますか?]電車の発車直前、背後に現れた救世主

 「まもなく、1番線に、大国町方面住之江公園行きが参ります」
 そのアナウンスが流れたとき、私はまだ階段の上にいた。
 乗りたい!
 たとえ5分待てば次の電車が来るとわかっていても、 この後何も用事がなくても
、こんなとき急がずにはいられないのが人情というものだ。前に人がいないことを確
認しつつ、階段を駆け下りる。周りの人々も一斉にスピードを上げたのが、ドドドッ
という足音でわかった。ちょうど電車が入ってきた「ゴーッ」という音とあいまって
、昔アフリカをテーマにしたどこかの企画展で聴いたヌーの大軍の蹄の音のよう…、
というのはいくらなんでも大げさか。
 私が階段を下りきったのとほぼ同時に、電車が止まってドアが開いた。私はお腹に
ぐっと力を入れる。ここからががんばりどころだ。何しろこの電車は6両編成で短い
。1番後ろのドアまで少し距離があるのだ。
 たぶん、30メートルはない。でも険しい道のりだ。右側には何本もの太い柱が林立
し、左側には落ちたら終りの深い谷がぱっくりと口を開けている。おまけに前方には
開いたドアから吐き出されてきた人の群れ。誰もがお互いにぶつからないよう距離を
保つことや、次に向かう方向を定めることに集中している。その無秩序な空間に割り
込んでいくには、ほどよいバランスの自己主張と遠慮が必要なのだ。そのどちらが欠
けても、衝突事故が起こる。悪くすると白杖で足をひっかけて転ばせてしまいかねな
い。
 それらのリスクを全部心に留めながら、出しうる限りのスピードでホームを進んで
いた、そのとき。
 「大丈夫ですか?」
 背後で声がした。私の右脇に、柔らかい腕が差し込まれる。驚いて振り返ると、声
の主であるおばちゃんが穏やかに言った。
 「一緒に走りますか?」
 おっ!私は顔がほころぶのを抑えられない。渡りに船とはこのことだ。
 そこからは彼女と一緒にスピードを倍にアップし、無事電車にすべりこんだ。助か
った。
 電車が動き出すと同時に、おばちゃんへの尊敬の念がふつふつと湧き上ってきた。
自分も急いでいるときに、声をかけてくれたこと。一刻を争う状況なのに、口調はあ
くまでも穏やかで親しげだったこと。
 何より、私が走るのを良しとしてくれた。これは欠航すごいことだ。「駆け込み乗
車はおやめください」、これは紛れもなく正論だ。「ましてや白い杖を持ってホーム
を走るなんてもってのほか。もし事故が起きたらどうするの」、これももうぐうの音
も出ない。「水は冷えたら氷になる」とか、「人間は食べ物がないと生きられない」
とかと同じで、それはもう圧倒的に正しい。
 でも実際は、今そこにいる電車を逃すまいとつい走ってしまうのが人間で、それは
白杖を持っていようがいまいが関係なくて。
 それをわかって一緒に走ってくれたおばちゃんは、あのときの私にはたしかに救世
主に見えた。

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