見出し画像

『ゆいはらひ』とは

『ゆいはらひ』とは、現代魔女の私が思いつきで作った、祈りとしての異時多発ゴミ拾いの会。

ベースになる場所はない。
私は和歌山に住んでいるから、ひとりで和歌山の浜辺でゴミを拾う。
もしもあなたがこの会に賛同してくれるなら、あなたはあなたの暮らす土地や、大事に思っている場所で黙々とゴミを拾って欲しい。

ゴミ拾いと祈りになんの関係があるっていうのさと言う人は、とりあえずきいておくれ。

プラスチックの原料は石油だというのはみんな知ってると思う。
この石油というのは、一億年くらい前に大量発生した植物性プランクトンの死骸が海底に降り積もってできたもので、それを地中深くから汲み上げて、あれやこれやと混ぜたりなんだりすると、プラスチック(可塑性がある、どんな形にもできる、という意味)の出来上がりだ。

「プラスチックは無限の変容という考えそのものであり、平凡であることを受け入れた最初の魔法の物質だ」というようなことを、フランスの思想家のロラン・バルトは言ったらしい。

そもそも何故そんな大量の植物性プランクトンが化石になったのかといえば、一億年前の地球にはまだ彼らを分解できるバクテリアが居なかったからなんだそうな。循環の輪にうまく乗ることができず眠り続けた植物性プランクトンたちが、ある日突然人間により長き眠りから呼び覚まされ、こう言われる。

「あなたは、何にでもなれるんだ!」

へぇー、わたしってなんにでもなれたのかぁ。
いいね。
と、言ったかどうかは定かじゃないけど、植物性プランクトンたちは寝ぼけ眼に変幻自在、それはもう素直に従順に、どんなものにでもなってみせた。
プラスチックの誕生だ。

でも、陸の上で与えられた役目なんてあっという間に終わってしまう。
レジ袋なら平均使用時間は12分だ。
一億年の厚みを知っているプラスチックにしてみれば、まさに瞬く間の出来事でしかない。

プラスチックたちは、
それなら海に還ろうかなと、
おもいつく。
だって分解されるまでに500〜1000年かかるんだから。
陸の役目を終えてからが本番ってもんだ。
ああ、懐かしい海。
帰れるさ。
だって何にでもなれるんだから。

風に乗って水の流れに乗って。
昔乗りそびれた循環の輪に交わろうと、たゆたい細かく砕けてゆく。あの頃のように。

マイクロプラスチックは、まさに植物性プランクトンが前世の記憶を辿った、なれはての姿だ。

古の怪獣をうっかり呼び起こして痛い目に遭うみたいな話ってSF映画にはよくあるけど、プラスチックは冗談抜きで、人類にとって地球にとって、そういう存在になりつつある。
というか、もうなってる。

だから私たちは
「あなたが還る場所は、海じゃないよ」
そう囁きながら一欠片の発泡スチロールを拾う。

私たちにとってのゴミ拾いは、何にでもなれるという夢を見続けている一億年前の植物性プランクトンのための、鎮魂の儀式なのだ。

毎分ゴミ収集車10台分が陸からどばどば溢れ出ていると言われる海洋流出プラスチックを前に、ひとひとりが海岸でひとつペットボトルの蓋を拾ったところで、焼け石に水にすらならない。
せいぜい火山に霧吹き程度だ。

こんな話をしている間にも、スリランカ沖で貨物船が沈んで一週間燃え続け、同時に何トンものマイクロプラスチックが海に溢れ出したという。
その間も、毎分絶え間なくプラスチックゴミは陸から海に流れつづける。
そして太平洋沖にはゴミだけで出来た島がある。その大きさは、日本四個分。

この、もはや手も足も出ないような地球の危機的状況で、魔女がなすべき祈りの所作はキャンドルにシジルを刻むことでも、紐に九つの結び目をつくることでもなく、ゴミを拾うことだと、私は思う。

『ゆいはらひ』の「ゆい」とは結と書く。ひとりでは到底こなせないような大きな仕事を分け合い担う、古いしくみの名前。そして「はらひ」は悪いものを追い払う祓いではなく、箒で掃き清めるの「はらひ」からつけた。

『ゆいはらひ』というプロジェクト名と共にゴミを拾っている私の写真をTwitterに投稿したら、沢山のいいねやリツイートがついた。着物に笠姿で海辺をうろついている姿が良かったようだ。

プラスチックゴミは、自然に分解されるまで500年から1000年かかると言われている。500年前といえば室町時代、1000年前なら平安時代。もちろん着物が日常着であった時代だけど、同じ着物でも今とは全く別物だ。着物の丈、帯の位置、素材に着方、生活様式も言葉も身のこなしも、1000年経てばいろんなことが変わってしまう。

平安時代から令和を想像できないように、今の私たちが想像もできない時代と文化を生きる誰かにゴミをなすりつけながら、私たちは日々を少しでも便利に過ごしたいと欲望する。

この日たまたま私が着ていた着物と笠は、予期せず今ここに重なる「過去」と「未来」の交点の依代となったのかもしれない。

太古のプランクトンの魂をなぐさめ、1000年後の浜辺を古代人の亡霊の似姿で掃う。
これが『ゆいはらひ』の祈りの軸だ。

私はこれからも週に何度か、日本のどこかで着物と笠でゴミを拾う。
別にあなたは何を着ていてもいい。
もちろん『ゆいはらひ』をきっかけにエコの視点で着物を着ようと思ってくれる人が居たら感激だし、何事も形から入ると楽しいものだから、ぜひ試してみてほしい。
なんなら着物や浴衣を着る口実にゴミ拾いを使ってもいいと思う。

なんだっていいんだ。
祈りなんだから。

ただ粛々と、異なる場所で、異なる時間に、過去と未来の交点の依代として、静々と祈りをむすびあわせよう。あなたにしか拾えない場所、あなたにしか祈れない祈りが必ずあるはず。

いいなと思ったら応援しよう!