【小説】やっと結婚できたと思ったら妻は家事をしない怒る女だった #9
当時、私達には毎月一回結婚記念日があった。結婚一カ月記念日、結婚三カ月記念日というふうに毎月十七日をお祝いの日とし、ワインで乾杯したり、寿司屋に出前を頼んだりしていた。だが、例えば、
「涼ちゃん、今週の金曜日は何の日だと思う?」と、言いだすのは私の方で、たいがい涼子はその日を忘れていた。私が寂しくなって拗ねると、
「こういうのは普通女の方から言いだすもんよ」と涼子は言った。
「でも、僕が言い出さないと。涼ちゃんは忘れているんだもの」
「忘れちゃいないわ。田島さんが先に言うからいけないのよ」
「じゃあ、僕は黙っているから、涼ちゃんの方から結婚記念日を祝おうと言ってくれる?」
「ええ、いいわ。でも、毎月結婚記念日なんておかしいわ」
「おかしくないよ、お祝いの日はたくさんあった方がいいからね。初めて僕達が出会った日とか、僕が涼ちゃんにプロポーズをした日とか、涼ちゃんがマンションに引っ越してきた日とか、僕は涼ちゃんとの思い出を何でもお祝の日にしたいんだ・・・」
結婚五カ月目の記念日。私はケーキと黄色い薔薇の花束と東光ストアのレジ袋を両手に持って八時ちょっと過ぎに帰宅した。ところがブザーを押しても、インターホンから何の返事もない。鍵を開けて入ると中は真っ暗で、涼子はいなかった。コンビニにでも行ったのだろうか。私は薔薇を花瓶に入れ、テーブルに飾ると、買ってきたものをポリ袋から出し、とりあえず料理の支度に取り掛った。今夜の献立はアーモンドハンバーグと蕪のライムサラダだった。しかし、食事の用意ができて、テーブルのランチョンマットに料理やワイングラスを並べても、涼子は帰ってこなかった。
私はにわかに不安になり、六畳間に行くと、涼子が結納金で買ったインターリュプケのシステム家具を片っ端から開いた。ハンガーを掛ける透き間もないほどぎっしり詰まったワードローブはそのままで、シャネルのスーツも、ジュンコ・シマダのワンピースも、ニコルのジャケットやパンツも洗濯屋の袋に入ってぶら下がっていた。「出ていったわけではなさそうだ・・・」ほっとしながら足元を見ると、ベッドの陰に乱暴に引き裂かれた洗濯屋のビニール袋の残骸が落ちていた。脱いだブラウス、ブルージーンズ、パンティーストッキングが、蝉の抜殻のように涼子の肢体の形を残したまま放ってあった。
あああ、いくら片付けても、掃除をしても、妻はすぐ散らかすゥ!
私は癪に障ってパンティーストッキングを足で蹴飛ばした。すると小ちゃな黒いものが飛び出した。私は近眼の目でじっと睨んだ・・・パンティーだった。
あああ、なぜ、洗濯機に、入れ、とか、ないん、だああああ! ああ、ああ、あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!
私は自分の嘆きを止められなかった。
涼子は、いったい、どこへ出掛けたのだろう?
パルコやステラプレイスへ買物に行ったとしても、今夜は二人の記念日だ。いくらなんでももう帰ってきてもいい時間だった。私は腹が減っていたが、食事には手をつけず、涼子の帰りをテーブルで待った。
この時、私の内部ではいろんな感情が粘土のように固まっていた。体温さえ低下させそうな、実にいやな塊だった。その複雑な塊をちぎり、感情別にすると、だいたい二つに分かれた。一つは涼子の行方に対する「心配」であり、もう一つは「落胆」だった。テーブルの真ん中に黄色い薔薇が咲いていた。ああ、何のために、何のために、私はこの薔薇を買ってきたんだろう。何のために、何のために、何のために・・・。私は薔薇の花を見つめれば見つめるほど、自分が哀れに思えてきた。滑稽なほど、哀れに。そして「落胆」が「心配」の何倍も大きくなり、例え誘拐されていても、交通事故に遭っていても、今この場に涼子がいないことがたまらなく腹立たしくなってきた。
待っても、待っても、待っても、待っても、待っても、待っても、待っても、待っても、待っても、待っても、待っても、待っても、待っても、待っても、待っても、待っても、待っても、待っても、待っても、待っても、待っても、待っても、待っても、待っても、待っても、待っても、待っても、待っても、待っても、待っても、待っても、待っても、涼子は帰ってこなかった。
地下鉄東西線西二十八丁目駅の最終列車の到着時刻はとうに過ぎていた。せっかく作ったハンバーグもすっかり冷めてしまった。涼子など待たずにご飯を食べ、さっさと眠ればいいと思ったりもしたが、朝起きて涼子が隣にいなかった時の怖さを想像すると、とてもベッドに潜り込む気にはなれなかった。
私は薔薇をぼうっと見つめながら、運命が時を刻むのを待った。私はこの時ほど時間の流れというものを早く感じたことはない。私は朝を恐れた。しかし、朝は何か得体の知れない怪物のように徐々に忍び寄ってきた。それはベランダの断熱ガラスにゆっくりへばりつき、生成のカーテンを白く染めっていった。
カーテンが透き通り、室内にも秋の朝が侵入し、窓の外からこの世がまだ続いていることを告げる烏の声が聞こえてきた頃、
カチャッ。・・・
玄関の鍵音がした。私はそれまで呼吸をすることすら忘れていたかのように、ふうううと安堵の溜息をついた。そして、テーブルのある場所と狭い玄関を仕切っているドアを見つめ、涼子がどんな顔で現われるか待った。しかし、そこから登場した涼子は、私の、いや亭主の期待を見事に裏切った。
「早いわねェ、もう起きたのォ」
涼子は何の悪びれた素振りを見せず、酔った顔で私に言った。「それとも、まだ起きてたのォ?」
涼子はポシェットをソファに放り投げた。
「・・・もう帰ってこないのかと思ったよ」
「あら、どうしてェ? 友達と会ってただけなのにィ」
その声はやかましかった。煙草と酒で喉を痛めたのか、風邪をひいたみたいに少々嗄れていた。
「今まで会ってたというのか。こんな時間まで」
私は携帯で確かめはしなかったが、時刻はおそらく6時半頃だっただろう。
「そうよォ。クラブで飲んでェ、カラオケへ行ってェ、もう眠たくてくたくたァ」
ワンピースの背中のジッパーを外しながら涼子は六畳間へ消えて行った。
「電話くらいほしかったな」
「しようと思ったわよォ。でも気づいたらもう十二時を過ぎてたのォ。田島さんを起こしたら悪いでしょォ」
後ろ向きのままワンピースを肩から剥ぎ取ったが、裾に足を引っ掛け、ちょっとよろけた。涼子は苛立たしそうに足を振り、まとわっていたワンピースを払った。
「遊ぶなとは言わない。でも、もう独身じゃないんだよ。朝帰りなんて恥ずかしいことだよ。それを平気な顔で帰ってくるなんて」
「タクシーがつかまらなかったのよォ」
「へえ、そのタクシーをいったい何時から待っていたというんだい。朝になってからだろう?」
その言葉に涼子はカチンときたようだ。腹に巻いているコルセットを肉体から乱暴に毟り取ると、部屋の隅っこに叩きつけ、シルクのパジャマに着替えた。
「脱いだものはちゃんとしまうんだ」
涼子はキッと振り返り、居直ったように凄んだ言葉を返した。
「いちいちうるさいわねェェェ。いったい私に何が言いたいわけェ?」
「せっかく料理を作ったのに、電話もよこさないで朝帰りをするなんて・・・」
「わかったわよォ! 食べればいいんでしょう、食べればァ!」
涼子はそう言って大股でテーブルにやって来ると、尻から椅子にどかっと座り、フォークを取り、ハンバーグに噛みついた。
「いいよ、無理して食べなくても。僕は電話をしろって言いたいんだ」
同じことを何度も言いたくはなかったのだが、私は少しも反省の色のない涼子に、どうしても謝って欲しかったのだ。すると、
「・・・もう、もう、もォォォォォう! あっ、たまにくるウウウウウ!」
腹の底から絞り出した怒声とともに、涼子は柳眉を逆立て、持っていたフォークを私の背後の壁にぶん投げた。同時に椅子がばたんと倒れ、フォークが板張りの床の上に転がった。「そんなにしつこく言わなくたっていいじゃないィィィ!」
涼子はソファへ行くと、ポシェットから煙草を掴み出し、口に入れ、ライターを苛々と擦った。
私は涼子の爆発に「しまった!」と心で悲鳴をあげた。涼子の初めての逆鱗だった。私は毛の先まで怯え、涼子の気合いに完全に呑まれてしまった。なぜ怒るんだ。なぜ怒鳴るんだ。なぜ、なぜ、なぜだあああ! どうもすみませんと頭を下げれば、亭主の顔が立つというのにいいいいい!・・・
「田島さんっていっつも口ばっかりなんだからァ! 優しくするって言っておきながらちっとも優しくしてくれないじゃないィ! 遊ぶのはいいけど早く帰んなきゃいけないですってェ? ふん。遊んでもいいって優しいところを私にみせたつもりでしょうけど、そんな言葉で私に恩を売るんじゃないよォ。今日一緒にいた友達はみんな結婚しているのよォ。和美のところなんか子供が二人もいるのよォ。みんな朝まで遊んでいても旦那は何も言わないって言ってたわァ。それなのに、なぜ、私だけが、責められなきゃいけないのよォ!」
「責めちゃいないよ」
「嘘ォ! 嘘ォ! 嘘ォ! 嘘ォ! 嘘ォ! 責めてるわァ!」
涼子は気色ばんだ顔で煙草を吹かしながら、春からずっとソファの脇にある扇風機を右足で蹴倒した。
「朝帰り、朝帰りというけど、ちょっと遅くなっただけじゃないィ。それだけでどおして田島さんにとやかく言われなきゃいけないのよォ、あああ、あああああ、腹が立つううう、私ほど不幸な人間はいないわァ、もう浮気をしたいくらいよォ!」
「えっ?」私の心臓の鼓動がにわかに高まった。「・・・浮気をしているの?」
「ちぇ、よく聞いてよォ、んもおおお! したいと言ったのォ、たまらなくゥ! たまらなくゥ! たまらなくゥ! もう田島さんとなんて口もききたくないわァ!」
涼子はテーブルの灰皿で煙草を揉み消すと、六畳間へ行き、音を鳴らして襖を閉めた。
涼子に説教をしようとしても、結局やり込められるのは、私の方だった。しかし、いつもなら涼子のご機嫌取りをし、「涼ちゃんはちっとも悪くはないからね」と言って、涼子の喉を撫で、ごろごろと微笑ませようとするのに、今度ばかりはさすがの私も自分の悲憤を抑えられなかった。
その日から私達は沈黙をした。私がソファにいれば、涼子はベッドで雑誌を読んでいる。涼子がソファにいれば、私はテーブルで煙草をくわえている。そばにいるのも「いや!」というそんな状態が何日か続いた。約束だから夕飯の支度はしてやったが、食卓で向かい合わせになっても会話が咲くことはなく、まるでエレベーターの中で食事をしているみたいだった。
陰欝な、息が詰まりそうな空気を鼻で吸いながら、私は三十数年の自分の人生を振り返った。私は決して間違った生き方をしてきたとは思わない。人間として多少の欠点はあっても、真面目に、当たり前に生きてきたつもりだ。その私がなぜこんなに殺気だった家庭を抱えてしまったのだろう。涼子を愛し、涼子に尽くし、涼子のために一生懸命働いている男が、なぜこうも背かれるのだろう。まだ新婚なのに、夫婦になってたった五カ月しかたっていないのに、涼子は自分ほど不幸な女はいないと唸り、私は常に噛みつく機会を狙っている涼子に怯える毎日だ。これが結婚生活の現実なら、「結婚による幸福な家庭」に憧れてきた私は、ずっと悪い夢を追いかけてきたことになる。
私達夫婦の最初の危機はこの時だったのだろう。さすがの私も離婚を現実のものとして考え始めたからだ。むろんこれは涼子が先に「離婚」を口走ったからで、そのことが私の心の根底に常にあったせいだ。
涼子が別れようと言ったあの時、確かに私は「火」や「武器」を持った別の世界の人種に攻め込まれた古代人のようにショックを受けた。完全な敗北だった。私は死が足元にあるように、私達の、いや私の結婚生活の今日や明日にも離婚があることを知った。両目をきつく閉じ、両手で両耳を押えたって、その現実からはもう逃れられないのだ。窓辺に花を飾っても、ラララと歌っても、どうあがいても、何をしても、何をしなくても。
私は運命論者で、この広い地球上で、しかも何億の歳月の流れの中で奇跡的に出会った女とどうして別れることができるだろう。私は涼子を生涯愛し、幸福にする責任があるといった清い考えを持っていた。しかし、愛しても、愛しても、愛しても、愛しても、愛しても、夫婦の仲はいつも殺伐とし、涼子のご機嫌取りばかりをしている私の心はやすまる時がなかった。私は、時折みせる涼子の可愛い仕草や朗色が本当の涼子であると信じ、献身的に尽くしてきた。が、涼子の本質はやはり獰猛で、自分勝手で、非常識の固まりで、結婚生活にまるで適さない怠け者であるとしたら、この涼子にしがみついている意味や愛までも自信なくぐらついてくるのだった。
こんな気持ちの変化が最初に表われたのは、山崎桃子に対するときめきだった。
【小説】やっと結婚できたと思ったら妻は家事をしない怒る女だった #10へ続く
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?