【小説】やっと結婚できたと思ったら妻は家事をしない怒る女だった #13
私はかつて日記をつけていたことがある。子供から大人へ向かう人生の転換期を記録に残そうと、サッカーの部活を終えた高校三年生の三学期に何となく思いついて始めたものだ。そんな目的だったから最初から長く続けるつもりはなく、ある日が来たらやめるつもりでいた。そのある日というのは結婚式のことで、妻となる女との出会いやデートの日々を克明に綴って、後々に眺めればいい思い出になるだろうと思ったからだ。ところがそんな意識や行為があるとなかなか縁には恵まれないもので、高校時代に好きだった森高美佳を懐かしむ片想いの感傷的な言葉が蛞蝓のように日記を這いずり、自分が次第に陰鬱な醜い人間になっていくのを感じた。
ものを書く行為は十七歳の少年の体に流れていたスポーツマンの明るい血を完全に抜き取ってしまったようだ。社会人になっても不安な暗い言葉の繰り返しで、希望いっぱいの人生のひと時が、自分のじめじめした恋心によって病的にむくんでいくような気持ちにかられ、大学を卒業した入社一年目の秋、同僚と明け方まで飲んだ日を境に、思い切って日記をやめてしまった。
私は何かほっとした、解放的な気持ちになった。しかし、五年近くも一日も欠かさず記録を残してきた人間が日記を放棄するというのはそれなりに寂しさがあるもので、「今日を生きた気がしない」というのだろうか、特別の出来事や心境の変化があった日は、会社の手帳の細いダイアリー欄に簡単にメモをするようになった。
涼子と結婚をしたその年の手帳には、こんなことが書いてあった。
四月十七日 涼はまだ結婚式の案内状を出していなかった! 本当に結婚できるのだろうか、不安。
五月三日 涼はまだ色直しのドレスを決めていない。ものすごいパニック!
五月十六日 独身時代よ、さらば! 明日いよいよ結婚! 涼を、絶対に幸せにするぞおおお!
五月十七日 パークホテルで挙式、披露宴。高砂席で涼はよく食べ、よく飲んだ。午前一時まで飲む。
五月十九日 ハワイ、シェラトン泊。朝空港到着後の涼の言葉に、悲しくなる。市内観光の間、一言も口きかず。
この時の涼子の言葉は、その後の夫婦生活の行く末を暗示しているものだった。到着後のざわついたロビーで空いてる椅子を一つだけ見つけると、私は涼子に座らせた。私は彼女の前に立って、入国手続きの案内アナウンスを待とうとした。すると涼子はこう言った。「ちょっと、前に立たないでよォ、暑苦しいじゃない。座るところがないんなら、向うへ行って飛行機でも見てればァ!」
六月五日 涼、初めて私の目の前で鼻をかむ。
九月十六日 涼、二カ月家賃滞納。唖然。家賃、貯金、公共料金の振り込み、これからは私の係。
この日のことも、今でもはっきりと覚えている。マンションの管理担当者から会社に電話があって、八月、九月分の家賃がまだ振り込まれていないと言ってきた。
「えっ、二カ月もですか。そんなはずは・・・ちゃんと振り込んでるはずです。もう一度確かめてくれませんか。こっちも一応妻に聞いてみますから」
私は金と通帳を涼子に渡し、家賃や公共料金の振り込み、それに貯金も任せていた。いくら涼子がああいう性格だと言っても、二カ月も家賃を滞納することはないだろうと思った。ところが、会社から家に電話をすると、涼子は平然とした声で、「あら、まだよ」と言った。「銀行へいったらさァ、振り込もうと思ってんだけど、つい忘れてしまうの。別に払わないと言ってんじゃないんだから、二カ月くらい滞納したからってどうっていうことはないわ。そんなことでいちいち電話をしてこないでよォ」
私は涼子に言いたい気持ちをぐっと堪えた。
私は社会や他人に迷惑をかけることができないたちで、家賃にしても、ローンの支払いにしても今まで一日たりとも遅らせたことはなかった。それを涼子は「どうってことはない」の一言で踏み躙ったのだ。私は涼子の行為に、社会的な責任や罪を負わされたような気になった。
この「事件」には、もう一つおまけがあって、私は涼子から返してもらった通帳を見て愕然とした。かなり減っているのだ。どうしてこんなに減っているんだと涼子に問い詰めると、「いつももらっているお小遣いだけじゃ足りないって前にも言ったはずよ。私だってずっと家にいるわけじゃないもの。買物に出たり、結婚式に出るたびに、いつも同じ洋服を着ていくわけにはいかないじゃない。田島さん、私が着たきりの、みすぼらしい女になってもいいの」と私の弱いところを突いてくるのだった。
私は涼子が金持ちの家に生れてきたのなら、パッパパッパと金を使うのもわかる。だが、ごく普通の家の出の娘が、いったいどうしてこんなに金遣いが荒いのだろう。我慢というのをまるで知らず、あれが欲しい、これを買ってと、私の給料以上のことをねだってくる。通帳の返還と貯金関係など財布の実権を私が握ることを認めるかわりに涼子は小遣いのアップを要求してきた。結局働いている私よりも涼子の小遣いの方が多くなった。
十一月九日 丸井の前で、涼、大声を出して怒り、一人でタクシーで帰る。
原因は、涼子の荷物を持ってやらなかったからだ。なぜ持ってあげなかったのか? 私も両手に荷物を持っていたから・・・。
十一月二十四日 涼、また夜遊び。待たずに布団に入ったが、眠れず。
十二月十二日 忘年会。待っている涼のために一次会で帰宅。しかし、涼、不在。涼、午前四時に帰る。
十二月二十九日 明日、涼の実家へ。結局大掃除はせず。
こうして思い出深い結婚の年が過ぎようとしていたが、最後に大きなイベントが残っていた。それは涼子の実家へ行き、涼子の両親とともに年を越すことだった。
正直言って、私は億劫でならなかった。普段から近くにいて行き来をしているのならともかく、涼子の両親には結納と結婚の日の二回しか会っていない。それだけの面識しかない彼らを「おとうさん、おかあさん」と言い、何日かをともに過ごす。涼子の実家とはいえ、私にとってはせっかくの正月を他人の家で過ごすようなものだった。
【小説】やっと結婚できたと思ったら妻は家事をしない怒る女だった #14へ続く
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