【小説】やっと結婚できたと思ったら妻は家事をしない怒る女だった #6
夏が終わり、涼子がショートパンツを押入の衣類箱にしまった頃、私はあることがどうしても我慢ができなくなり、テーブルで涼子に言った。
「もうそろそろ掃除をしたらどうだい。綿ゴミや髪の毛が床にいっぱい落ちているし、便器だってまっ黄色じゃないか」
「私にトイレの掃除をしろっていうの?」
「そうだよ」
「なぜ私がしなきゃいけないの。このマンション、田島さんが借りてるんじゃない」
「涼ちゃんは居候じゃないんだよ。どうしてそんなことがいつまでもわからないんだ」
私は結婚したという自覚がまるでない涼子に、きっちりと言わなければいけないと思った。
「掃除ばかりじゃない、食事もだ。いつも僕が七時に帰ることがわかっていながら、どうして帰ってきてから食事の支度を始めるんだい。一日中家にいるんだから、時間なんてたっぷりあるだろう。こっちは働いて金を稼いでいるんだからね、家のことくらいきちんとしてくれなきゃ。いつまでも独身気分でいられちゃ困るんだ。明日から早く起きて、朝食もちゃんと作るんだよ。いいね」
「ふん!」
涼子は鼻を鳴らし、不敵な笑いを浮かべた。「私は、料理や洗濯をするために結婚をしたんじゃないわ。それに偉そうに稼いでいるって言うけれど、田島さんの給料なんて、そんなに多くないじゃない。前に私とつきあっていた人なんか、田島さんの年齢で、倍はもらっていたわ。あんなんじゃお出掛けの洋服も買えやしないわァ」
「ほら、そう言ってすぐわがままを言う。もっと大人にならないと。何度も言うけど、涼ちゃんはもう結婚しているんだよ、僕と!」
「じゃあ、別れましょう」
涼子はあっさりと言った。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・たった今、私を襲った涼子の言葉は、山にぶつかるこだまのように、私の頭の中で反響した。九十センチ角の白いテーブルの向こうに涼子がいて、二つの黒い鼻の孔で私を見ていた。その上にある瞳は剥製のようにただ前を睨み、突風のような言葉を吹き出した唇はぴたりと閉じ、小さく尖っている。互いの沈黙の間、涼子の鼻孔から漏れる息の音だけが、室内の空気を乱していた。私は雷を頭から落とされたように呆然と涼子に目を向けていた。何かを考え、言葉を探そうにも、ショックで神経はずたずたになり、思考の回路もいっぺんにいかれてしまった。心臓も黒焦げにでもなったように正しく機能しなくなり、胸を叩けばぽろぽろと脆く砕け散ってしまうような気がした。私は心臓など二の次で、とりあえず話せる状態になるまで自己を回復させると、休火山のように閉じている涼子の唇を刺激しないように、しないように、穏やかに言った。
「何を言ってるんだい、別れるなんて・・・」
「田島さん、私のことが気にいらないんでしょう。なら、早いうちに別れたほうがいいわ」
「・・・涼ちゃん・・・涼ちゃんは、僕とどうして結婚をしたんだい?」
「田島さんが結婚をしようと言ったからよ」
「それだけ?」
「そうよ」
「僕のことが好きじゃなかったんだ・・・」
「わかんない、そんなこと。好きとか嫌いとかじゃなくて、田島さんがしようと言ったから聞いてあげたの。だから今度は、田島さんが言うことを聞くばんよ」
「いやだよ、僕は」
「だめ、もう別れるゥ! その方が田島さんも気楽でいいわァ」
ああ、私が離婚に直面している。私が! 私が! この私が!
災いとか、喧嘩とか、暴力とか、危険なことに遭わないように、遭わないように、遭わないように生きてきた、この臆病で真面目な平和主義者が!
妻に、別れよう、と言われたのだ! ああァ、いやだよおおおおおッ!
私は目に涙が張るのを感じながら、
「そんなこと言わないでェ!」
私は掠れた声で涼子に哀願した。
「掃除は僕がやるし、ご飯の支度だって面倒ならしなくてもいいからァ」
「でも、それじゃあ田島さんが困るんじゃないのォ?」
「いや、いいんだ。僕は涼ちゃんがそばにいてくれるだけで幸せなんだから」
「ふうん、そうなの。じゃあどうして私を責めたりしたのォ?」
「もう責めないからァ」
「本当でしょうねェ?」
「ああ」
「でも、ご飯の支度はどうすんのォ?」
「僕がやるよ」
「私の分も?」
「もちろん、僕たちは夫婦じゃないかァ」
私は涼子を包み込むように言ったが、
「でも別れるわァ」
涼子は私の気持ちをするりとかわした。
「いつ? やっぱり今すぐ? それとも明日? 明後日?」
「私としては今すぐ別れた方がいいと思うんだけど、田島さんが本当にちゃんとやってくれるんなら、延ばしてやってもいいわ。別にいつと言うわけじゃなく、決まりを破ったらその時がサヨナラよ」
いやだあああああァ! 涼ちゃんと別れるなんてえええええェ!
私はうなされ、真夜中に目を覚ます。目覚めたついでにトイレへ行くか、さもなくば寝返りを打ち、隣で眠っている涼子を睨む。気づかれないように、舌を出し、涼子の髪を嘗めてみる。胸を探し、乳首をちょんと突っついてみる。腹を撫で、閉じている股間に指の腹を滑らせてみる。ああ、確かに涼子はここにいる。私が夢中で愛した、愛した、愛した涼子が。好きで、好きで、大好きで、とにかく好きでたまらなかった涼子が。
だけど、私たちは猛烈な大恋愛によって結ばれた夫婦ではなかった。私が涼子を一方的に愛し、プロポーズをし、涼子が承諾をした。何か事務的な、感情よりも「判こ」を連想させる結ばれ方だった。新婚時代特有の甘いムードに包まれなかったのも、おそらくそのせいなのだろう。涼子は、私じゃなくても、誰でもよかったのだ。結婚してもしなくても、どうでもよかったのだ。ああ、だけど、そんなことを今さら言ったって・・・。
私は涼子を手放したくなかった。絶対にィ!
六時半に仕事を終え、これから帰ると涼子に電話をすると、隣のデスクから竹田が言った。
「田島さん、まだ新婚気分が抜けないんですかァ?」
同僚の大岡や楠木までも、
「あんな美人の嫁さんをもらうからだめになるんだよ」
「田島、たまには不良亭主になって酒でもつきあわんか」
口を合わせて、私をからかった。
「第一まだ結婚指輪をしているのが気に入らないな。俺なんか新婚旅行から帰ってきた日に外してしまったぞ」
「それ、今どこにあるんですか?」
竹田が子供のように楠木に聞くと、
「どこにあるのかも覚えていないよ。押入のがらくた箱にでも入っているんじゃないのか。もっとも見つけだして嵌めてみようとしたところで、もう指が太くて入らないだろうけどもな」
「それじゃ、今夜も田島抜きで、ぱあっといきますかァ」
「おまえ、子供を風呂に入れなくてもいいのか?」私は大岡に言った。
「そんなものは女房に任せておけばいいんだよ。男がやることは、ただひとつ。たまに夜のお相手をしてやって、女房を喜ばしてやればいいのさ」
「それで奥さんよく文句を言わないな」
「何か文句を言ったら引っぱたいてやればいいんだよ、ピシッとな」
「ピシッと?」
「そう」
「ピシッとか・・・。俺にはとてもできないよ」
私は自分の結婚生活を、妻に関する悩みを、誰にも打ち明けられなかった。相談したところで、解決策は「ピシッ」しか出てこないだろう。妻ヲヒッパタケだって? そんなこと、私にできるはずはない。妻に痛みを与えたら、その何倍もの痛みが私に返ってくるだろう。永久に叩かれ続けるのは、私の方なのだ。
地下鉄西28丁目駅から地上に出ると、私は自然と足早になった。
愛する妻に一刻も早く会いたいために?
とんでもない。私は腹を空かして待っている(ちょっとでも遅れるとぎゃあぎゃあ文句を垂れる)妻のために、東光ストアで買物をしなければいけないのだァ。
時おり涼子が近くのコンビニでパック入りの切った野菜を買っておいてくれたが、私は料理を作るからにはもっとちゃんとした材料が欲しかった。私は仕事の合間に考えた今夜の献立の材料メモを手にしながら、大根を、椎茸を、焼き豆腐を、白身魚を、鶏モモ肉を、カゴに放り込んだ。
私が料理を作っている間、涼子はソファで漫画の本を読んでいるか、携帯でゲームをしていた。たまに茶碗や箸をテーブルに並べてくれることもあったが、それは私が「お願い」したからで、自分からは動こうとしなかった。味噌汁を作ったり、フライパンを手にしている時は、独身時代の延長と考えれば、別段どうという感情はなかった。しかし、まな板に向かい何かを切っている時は、さすがに寂しさが込み上げてきた。東京の大学時代、私は東横線祐天寺の「コーポ日の出」というアパートで暮らしていた。狭い台所で、とんとん、とんとんと、包丁でまな板を叩いていた時、無性に母を恋しくなったことがある。その時と同じように、換気扇にゆらゆら吸い込まれる夕餉の煙に浮かぶのは、涼子ではなく母の顔だった。
涼子はおいしいと言って食べてくれたが、食器を洗い、後片付けが済み、ソファでやっとひと息つこうとしたら、冷蔵庫へビールを取りにいった涼子が憎たらしい声で喚いた。
「もォう、田島さんったらァ! いっつも、流しを水浸しにするんだからァ!」
⇒やっと結婚できたと思ったら妻は家事をしない怒る女だった #7へ続く
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