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【小説】やっと結婚できたと思ったら妻は家事をしない怒る女だった #14

 十二月三十日、私たちは特急大空3号に乗って釧路へ向かった。その時、席のことで涼子とちょっと揉めたことを覚えている。

 世間の夫婦はどんなふうに座る席を決めているのか知らないが、私たちの場合は、いや正確には涼子のルールブックでは、女性が窓側に座ることになっていた。新婚旅行の時に千歳から成田へ向かったJALの飛行機でも、余市を一度だけ訪ねた時の岩内行きのバスでも、この時に乗った大空3号でもそうだった。「女が窓側に座るもんよ。常識じゃないの」と言った顔で、涼子はいつも先にふん反り返ってしまう。

 しかし、大人気ない話だが、私も窓側に座りたいのだ。そこはただの席じゃない。乗り物に乗るたびに父や母に譲ってもらった、いわば「少年の心の席」なのだ。その席を妻に奪われてしまうのは悲しいことだった。私は涼子といる限り、窓際の席に座ることは永遠にないのだろうかと思った。しかし、涼子は実家への帰省者だが、私は旅人なのだ。その旅人のために少しは気を利かせてくれてもいいのに、涼子はその場所が自分の専用席であるかのように偉そうに座っている。後ろの乗客の迷惑も考えずに背中でぐいっと倒した背凭れに身を預け、尻にぴったり貼りついたミニスカートの裾の前で左右の脚を優雅に絡ませていた。いや、優雅というよりもまるで猛毒を持ったコブラのように。いつもより化粧を濃く塗り、甘酸っぱい香水の匂いをぷんと放っていたが、彼女が手にしていたものはその芳香とは不似合いな少女漫画の本だった。

 私も四こま漫画の本を見ていたが、列車が石勝線に入り、追分駅、新夕張駅を通過し、北海道の内陸へどんどん進むにつれ、顔を上げてぼおっと窓のほうを見る回数が増えてきた。外は雪が降ったり、晴れたりで、山合いのどうでもいい景色が続いていたが、ちょっとでも辺りが開けるとつい窓の方へ目が行ってしまう。涼子はそれが気になった。

「ちょっと、何見てんのォ。気が散って本を見られないじゃないィ」

「じゃあ涼ちゃん、僕を窓側の席に座らせてくれる?」

「どうして?」

「景色が見たいんだ」

「いい年をして、子供みたいなこと言わないでよッ」

「いいじゃないか、たまには」

「だめよ、ここは私の席なんだからァ」

「漫画を読むんなら、こっちの席でもいいだろう」

「いやですゥ」

「ちぇ」

「何ふてくされてんのォ。本当にもォう、田島さんったら、年をとってるくせに子供なんだからァ。あんまり恥ずかしいことを言って私を困らせないでねェ。それでなくても私ちょっと、田島さんに腹を立ててるんだからァ」

 涼子はちょっとでも心が破れると、その破れ目からこの場の話題とは関係のない恨みや怒りをどんどん出してくる。

 私の胸の中で警報音が鳴り始めた。

「どうして?」

「田島さんが朝すぐに目覚しを止めないから、うるさくてうるさくて私も七時に起きてしまったじゃない。すぐ止めてよね、目覚しがなくても起きれるって言ってたくせにぜんぜんだめじゃない。ほんとに田島さんって口ばっかりなんだからァ。私、九時まで寝ていたかったのに、なんだかものすごく損したみたい。それにこの席よ。グリーン車にしてって言ったのにしないんだもんなァ」

「満席で取れなかったって言っただろう」

「嘘よォ、グリーン車の席なんて最初から取る気がなかったのよォ。田島さんって、けちだからァ。何でもすぐけちるんだもの、私、貧乏性の人って、だあい嫌いィ!」

 涼子のその言葉とともに景色を見たいといううきうきした気持ちはすっかり萎えてしまった。それから釧路まで涼子とは会話らしい会話を交わすことはなく、私は前の座席の背凭れの裏側をただただじっと睨んでいたのだった。

 涼子の実家は釧路市内の春採湖に近い高台の住宅地にあった。私はそこで正月の三日まで過ごしたわけだが、滞在中の涼子の発言や悪態に関してこれといって話すべきことはない。涼子は寝ているか、漫画の本におそろしいほど没頭し、私への災いはとりたててなかった。

 ここで私が述べたいのは「妻の実家で初めて何日かを過ごした婿の心境」と言ったものだ。まったく嫁の実家ってどうしてこうも退屈で心細いものなのだろう。居場所もテレビのチャンネル権もなく、茶の間の隅で、私は神経質な猫になっていた。豪放磊落な婿ならうまく振る舞うことができるのだろうが、私のような根の暗い男はまず考え込み、普段以上に無愛想になってしまう。「遠慮」の一言では片付けられない、引っ込み思案の気持ちが頭をもたげ、私は孤独感にすぐに陥った。釧路に来る前は日頃の涼子の罪状に堪りかね、両親に直訴しよう、そんな意気込みもあった。

「お義父さん、お義母さん、きいてください。涼子ったら、家ではなにひとつ家事をやっていないんですよ。何かと言えばすぐ、離婚だと言って私を脅迫し、私にばかりご飯の支度や掃除をさせるんですよ。どうか叱ってやってください。亭主をもっと大切にしなきゃいけないときつく言ってやってください。ああそれに、こんなことは言いたくないんですが、あなた達はいったいどんな教育を涼子にしてきたんですか。えっ? どんな教育を? せめて私と出会う前に、ご飯の炊き方くらいは教えておいてほしかった・・・」

 だけど、言わなかった。「妻の日常の悪行の根源を探る」そんなテーマに取り組む心の余裕などなかった。むしろ涼子が唯一の頼りになり、私はずっと涼子のそばにくっついていた。できればその服の一部を撮み、トイレにだって行かせたくはなかった。

 涼子のひどい言い種は相変わらず私をムッとさせたが、涼子も涼子なりに私に気を使っていたのだろう。着いたその夜の晩飯でも、「遠慮をしないで食べなさい」「お酒はもういいの」「食べたいものを言ってよ。取ってあげるから」と言って私の横で食卓を仕切り、非日常的な優しさを私に示してくれた。

 私が過ごした茶の間は玄関ホールの左手にあり、八畳の空間に薄紫のカーペットが敷いてあった。曇りガラスを貼った引き戸の前には赤ワインを塗りたくったようなサイドボードがあり、その奥に32インチのカラーテレビがある。
 入口の右側には石油ストーブ。ステンレスの煙突が天井付近で直角にカーブし、出窓のある壁の方へ伸びていた。煙突が曲がるところに針金が巻きつけてあり、針金の両端はテレビの上と反対側の襖の上のコーナーに留めてあった。宙に浮かぶ針金にはサルマタ、靴下、手袋、タオルがぶら下がっていた。起きている時はこの茶の間で過ごし、寝る時は襖を隔てた六畳の和室へ移った。私はトイレや風呂、洗面室へ行く以外にこの空間から出ることはなく、二階がどういう間取りなのか知ることはなかった。

 一晩寝た翌日は大晦日だった。私が知っている大晦日といえば、もう朝起きた時から「ほらあと十五時間で終わりだよ」といった具合に、あと何時間、あと何時間、あと何時間で今年が終わってしまうと母が騒ぎ立て、父も家を出たり入ったりしていて、とにかく忙しかった。ところが妻の実家には年の変わり目のざわついた雰囲気がまるでなく、むしろ静かで、とても明日が正月という気持ちにはなれなかった。街に出れば少しは歳末の気分を味わえるだろうと思って、

「涼ちゃん、ぶらっと街へ出てみようか」

 義母が台所へ行った隙に、小声で涼子に言ってみると、

「退屈なの?」

「うんちょっとね」

「じゃあ行ってくればァ。タクシーをひろって」

「涼ちゃんは?」

「私は行かないわ。だって寒いもの」

 涼子は私を街へ案内するつもりなど毛頭なく、持ってきた漫画の本を広げながら愛想なく言うのだった。

 その夜、

 ・・・(義父)最近の紅白ってさっぱり面白くないね。知らない歌手ばっかりで・・・誰さ、これ・・・(義母)田島さん知ってる?・・・へえ、知ってるんだ。こんなに歌が下手でも人気があるんだ・・・(義父)何時だ?・・・(義母)十時半・・・(義父)寝るか・・・(義母)あんたがたいつも何時に寝てるの?・・・えええ!  二時に寝てるって!・・・お父さん、涼子たち二時に寝てるんだって・・・(義父)そんな夜中にか・・

(義母)やっぱり 若い人は違うね・・・

 紅白歌合戦の途中で義父母が早々と二階へ上がってしまうと、私はやっとテレビの前で寝転ぶことができた。どんなにらくにしなさいと言われても、お客という意識があり、二人の前では脚さえ崩すことができなかった。しかし、緊張から解放されても、私はこの家の空気になじめなかった。私は壁の時計を見た。あと一時間たらずで今年が終ろうとしていた。涼子はテレビを見るふうでもなく、同じ漫画を怖い程真剣な顔で読み返している。年越しそばも団欒もなく終わるなんて、記念日や節目節目を大切に生きてきた私にはとても寂しいことだった。

「行く年来る年」で除夜の鐘を聞いた時、涼子は風呂に入っていて、私はひとりで茶の間にいた。外は寒風が吹いているのだろう。姿を持たない冷たい唇が煙突の穴にキスをするたびに、ストーブの炎がごおっと音を立てて膨らんだ。その猛りを聞きながら、私はずいぶんと遠いところに実家を持つ女と結婚したものだと思った。

 私は山崎桃子のことを頭に浮べた。桃子は札幌の北区に住んでいる。札幌ならこんな寂しい気持ちにはならないだろうと思った。私は桃子の家のリビングを想像して、自分をその中に置いてみた。ここよりずっと暖かく、幸せそうだった。さらに、こんなことも考えた。ひょっとしたらこの茶の間で正月を迎えるのもこれが最初で最後かもしれないと。涼子と別れてしまえば、この家の敷居をもう二度と跨ぐことはないのだと。


【小説】やっと結婚できたと思ったら妻は家事をしない怒る女だった  #15へ続く


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