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備忘録2 幸福な夫婦とは(フランス)
私は夫婦というものは、いずれ冷めた関係になるのが普通だと思っていた。
私の両親がそうで、「亭主元気で留守がいい」という昔のCMの通り、いなくなればほっとするくらいなものだろうと思っていた。
今から20年近く前、私が25歳の時、ヨーロッパを3週間ほど旅した。
建前ではドイツに留学している従姉に会いに行くのが目的だったが、本当のところは付き合っていた人に振られた傷心旅行だった。同時期にバイトも頼める仕事がなくなったと、契約を終了されたばかりだった。
フランクフルトから入って、パリから帰るプランだったが、ガイドブックを眺めているとどんどん欲張りというか、ヤケクソになって、「あの人(元彼)が絶対しないことをしてやろう」と意地になり、最終的にヨーロッパ最高峰のモンブランに登ることもプランも入っていた(天候不良で行けなかったが)。
当時フランス文化かぶれだった私は、最後に訪れたパリで音楽家セルジュ・ゲンズブールの墓参りに行った。モンパルナスの彼の墓はガイドブックの写真のままで、「ここか」と確認した程度でさほど感動しなかった。
帰りは別の道を通ろうと、西日が柔らかく差し込み、生い茂る雑草のシルエットが美しい通路に入ると、腰をかがめた老女とダウンベストを着た婦人が草刈りをしていた。
私はひと目見てその老女が映画監督のアニエス・ヴァルダだとわかった。
髪から足元まで全身えび茶色で統一したファッションがトレードマークで、ヌーヴェル・ヴァーグ唯一の女性監督だ。彼女の作品のファンである私はその数年前、映画祭のゲストで来日した彼女と息子のマチュー・ドゥミと一緒に写真を撮っていたのだ。
彼女が掃除していた墓は、7年前のこの日に亡くなったパートナーで同じく映画監督のジャック・ドゥミのものだった。
興奮した私は話しかけて間も無く、つい写真を撮っていいかと聞いてしまった。
彼女は「今日は一番悲しい日だから」
と言って、自分はNGだけどと、墓の写真を撮らせてくれた。撮り方のアドバイスまでしてくれた。
彼女に礼を告げ、墓地の外に出た途端、私はなんて不躾なことをしたのかと、とても恥ずかしくなった。この気持ちのままここを去れないと思った私は、目の前の花屋で白い花束を買い、急いでドゥミの墓へと戻った。
非礼を詫びて花束を渡すと、彼女はとても喜んでくれた。だが、既に墓の上いっぱいにえび茶色の花が飾られていて、白い花の居場所はなかった。
この出会いは、私の中の夫婦の概念をひっくり返した。
彼らほど才能に溢れた特別なカップルはいないと思っている。世界から称賛され、数々の名作を残している。しかし、それ故に私には想像ができないほどの苦労や困難が二人の間にはあったはずだ。
死後7年経っても「今日は一番悲しい日」と言えるほど、深く強くつながった彼ら夫婦のあいだには、私が思っていたような軽薄さのかけらもなかった。
それどころか、自分の体の半分が欠けてしまったくらいの喪失感を味わいながら、彼女は生きているように見えた。
この世の中にこんな夫婦がいることも衝撃だったが、私が信じていた「好き」や「愛」は、どれだけ形骸化されたものだったのか。
あのとき自分がどんな風に傷ついて旅に出たのか、今は何も思い出せない。しかし、今年ドゥミの元に旅立ったヴァルダの言葉は、何度も思い出している。
ここまでは大学の課題で書いたエッセイだったが、書き終えた翌日に私の父が亡くなった。
大腸ガンを患った父を、3年間献身的に介護したのは母だった。
私が子供の頃はろくな会話もしていなかった母が、認知症が始まり何もできなく父にずっと優しい言葉をかけていた。
誰が見ても仲睦まじい夫婦だから特別に深い愛情が備わっているわけではないと、あれから20年ほどしてやっと知った。
2019.12.2 (2020.7.3リライト)