反リベラルの潮流
自分自身の中で最近急に反リベラルの考えが強まってきたので,自己分析と考えのまとめをしてみた.
リベラルの内政上の考え方は弱者(マイノリティ)と強者(マジョリティ)を分けて考え,「強者は強者であること自体に優位性があり,弱者はそれを持たないことで多くの社会的不利益を得ている」ので,強者は弱者に対して配慮しなければならないという考えを持つ.そして強者が弱者に配慮することですべての人が生きやすい公正平等な社会をつくっていくというのがその基本理念だと思う.
僕自身はこの考え自体には同意するし,強者が弱者を駆逐するような社会ではあってはならないと思う.具体的にはリベラルが支援する分野としては,金銭的マイノリティ(貧困,非正規労働者),性的マイノリティ(LGBTQ,フェミニズム),身体的マイノリティ(障害者や病人),人種・民族マイノリティ(黒人・在日韓国朝鮮人),身分的マイノリティ(同和問題),家族的マイノリティ(婚外子,一人親),嗜好的マイノリティ(オタク)などがよく知られている.以前はこれらのマイノリティは非常に人口が少ないか,特定の地域やコミュニティに密集して居住していて,マジョリティ側としても認識がしやすく,また偏見に基づく積極的な差別(からかう,罵倒する,相手にわかるように忌避する)が横行していた実態があった.それだけマジョリティが集団としての同一性や強者性を持っており,弱者と強者がはっきりとした世界だったと言っても過言ではない.
しかし,大きな物語が終焉し,人々の人生の多様性が深まっていったこの2,30年において,リベラル勢力と社会の構造的問題を見つけることにより業績となしてきた人文社会系アカデミアの一部は,これだけにとどまらず,様々な分野の強者・弱者を見つけて上記の理念をあらゆる社会に応用しようとしてきた.それ自体に問題があるとは私は思っていない.しかし,その応用の仕方にいろいろな問題が生じているのもまた事実である.
一つの問題は,大きな物語の終焉後に社会が多様化し,マイノリティへの差別や偏見が減少してきた結果,多くの人が何らかの弱者性を持つようになってきたことである.オタクなどは最近は弱者とは考えにくいほど多くの人々に広まっているし,LGBTも「変な人」ではなくなりつつある.また格差社会により貧困は中流階級にも広がってきているし,少子高齢化社会によって身体的マイノリティはむしろマジョリティになりつつあるといっても過言ではない.
また最近では男女共同参画の流れによってフェミニズムの勢いもましていて,経済的貧困かと相まって「見えない家事問題」とか「子育て世帯の大変さ」というものに対しても強者・弱者の論理が応用されるようになってきた.昨今子育て世帯への金銭的支援が積極的に行われるようになったのは,専業主婦時代には見えにくかったが,子育てに専念する女性や家庭がかなりのハンデを負いながら社会生活をしているという実態が明らかになってきたためである.しかし,子育て自体は人生の中で多くの人が行っているプロセスであり,弱者性はあるかもしれないが少数者とは言えない.マジョリティでありながら,弱者であるという矛盾した状況が一般化してきており,何らかの弱者性を持つという意味では,1億総弱者の時代がやってきているとも言えるのだ.
その中で問題になるのが「複数の弱者性の調整」である.リベラルの中には弱者性への配慮はゼロサムではないという主張もあるが,実際に人々が日々の生活を送るミクロな場ではこの問題はかなり深刻である.例えば職場でどうしても午後6-7時ごろに行わなければならない作業があるとする.しかし,保育園のお迎え時間があるので子育て世帯へは絶対的な配慮が必要である.一方で残った独身・子育て後の世帯にもそれぞれ事情がある.その日の夕方はLGBTでの大事なデートを予定していたかも知れないし,自分自身の病院受診への機会を逃してそのフォローに回っているかも知れない.彼らも実は配慮が必要な弱者性を持っているということは往々にしてある.ミクロな現場に生きる人々はどうしても感情に左右されて生きている人々であり,こういうことが積み重ねれば職場での不満は鬱積し,互いの弱者性を非難したり,どちらがより配慮されるべきかということについて血みどろの論争が巻き起こったりする.特に少子高齢化で社会的資源が減少していく日本では誰が配慮に必要なリソースを提供するのかという問題は特に深刻なのだが,これらの問題に対してエリートリベラルは何の解決策も示さず,ただ「強者は弱者に配慮しましょう」と原則論を言うのみである.「現場を混乱を無視してに頭でっかちに上から目線で規範を押し付ける」リベラルに多くの人は賛意を示すわけがない.
もう一つは「過渡期におけるしわ寄せ問題」である.リベラルの理想を社会に還元していくためには,複数の理想を同時に実現していく必要がある.例えば,男性の家事参加を促していくためには,男性に対する仕事優先の社会風潮を変えていく必要があるし,男性が非正規労働者であれば家事参加で減った分の給料を補填する社会的仕組みが必要である.しかし,現実にはこれらの政策は同時には行われず,「まずはこの問題から解決していく」という流れにならざるを得ない.そうすると制度の狭間でしわ寄せを受ける人が必ず生じてくる.具体的には男性の家事参加のみが行われると,非正規労働者の男性は「女性(妻)への配慮」「給料の減少」「職場での地位低下」という3重苦を抱えることになる.コロナ禍で真っ先に切られるのはこういう人々であり,下手したら収入断絶から離婚に至るかも知れない.こうなるともはやどちらが社会的弱者なのか分からない.この5年ほどで急激に男女共同参画の動きが強まっているが,それとともに生きづらさを訴える人が急速に増えている印象があるのは,この「過渡期のしわ寄せ」がもたらす効果だろう.この問題に対してもエリートリベラルから現実的な解決策が提示されることはない.せいぜいすべての理想を実現できなかった自民党や上の世代への批判を聞かされるだけだが,それは差し迫った現場の問題や鬱積するストレスに対して何の解決策にもならないのである.
皮肉にも家父長制の崩壊とともにリベラリズムが浸透し,多くの人が20年前に「進歩的」と言われた考え方を実社会で実践していく中で,このリベラル勢力の言説の欺瞞に気づくことになった.リベラリズムの限界とか反リベラル,新反動主義などの新たな動きが次々出てきているのは,社会が右傾化しているとか右翼の影響力が強くなったからではなく,人々が現実社会でリベラルを実践し始めて大きな壁にぶつかっているからである.それに対してエリートリベラルは真摯にその声に向き合い,自らの理想や原理原則論を曲げてでも現実的な解決策を提示しなければならないが,彼らがやっていることは現場で困惑する大衆に対して「お前らはバカだからもっと勉強しろ」と上から目線で罵倒するだけである.もちろん,「だから家父長制に戻ろう」なんて言う人は誰もいないと思うが,大衆側も進歩しないリベラル勢力に別れを告げて,新たな考え方をインストールする必要があるのは明白である.
その中で私が期待しているのは「共同体2.0」とも言うべき考え方だ.かつての共同体では身分社会的な要素が強く,「あなたはこういう特性で生まれているのだから,こういう風に振る舞わねばならない」という固定観念でガチガチに縛られたものであった.共同体が個人を規定するといっても過言ではない.しかし,「共同体2.0」の根底理念にあるのはすべての人は平等や自由があるといったリベラル思想である.その上で共同体に参加する人は,共同体全体にとっての理想を共有し,それぞれが可能な範囲でそれに貢献していく.共同体が存続するための「人」「モノ」「金」のリソースの維持にそれぞれの人が得意を生かして異なる形や異なる程度で多様に貢献していくという考え方と同時に,誰しもが「強み」と「弱み」を持っていて,共同体へ貢献していく作業の中で「弱み」が支障になるならば「強み」を持った人が補完して社会貢献への障害を取り除いていくという考え方である.全員が本来平等であるべきだというプラマイゼロからの引き算思想ではなく,全員はそもそも違うのだという前提に立って足し算思想で社会問題を解決していく考え方で,社会福祉のノーマライゼーションやインクルーシブといった概念にも通じるところがある.
このような考え方の一番のメリットは「誰が配慮されるべきか」という文脈において,「この人がその強みを生かして共同体に貢献するために,みんなの配慮が必要なのだ」という配慮の根拠に納得できる正当性を与えることで,現場での妬みや僻みといった感情面での争いを最小限に抑えることができることである.一方でデメリットとして考えられるのは,共同体ごとに抱える問題や必要とされる強みが異なるために,強みと弱みの調整でアンマッチが生じてくるという問題である.それに関しては複数の共同体が異なる多様な理想を掲げて活動し,その暮らしやすさを競争することである程度解決できるのではないかという期待を持っている.中には面白い実践を行うところも出てくるのではないだろうか.たとえば過疎地で若手もおらず男手が足りないような地域で,ゲイの人の結婚やその社会的地位を認めたり,交流の場所を整備することで,男の定住者をたくさん集めてくる,というようなアイデアが考えられる.ゲイの人にとっては,LGBTであるという「弱み」に配慮してもらうことで,「力強い」という強みを生かして社会に貢献していくことになるのだ.共同体2.0のCEOである地域リーダーはこういうアイデアを積極的に具現化し,ミクロにどうしても生まれる感情のしこりに配慮しながら,切磋琢磨していく責任を負う.一箇所に定住している人には辛いかも知れないが,これからは自分の参加したい共同体を選んでライフステージごとに移住をも考えていく時代になるのではないかと思う.
反リベラルというとすぐに(昔ながらの)保守やネトウヨと一緒にされることが多いということを,この転向を経験してから強く感じるのだが,この記事を見てもらえれば分かるように,全く考え方は別物である.リベラルの実践の中から絞り出されてきた新しい潮流と言っても過言ではない.現に私は一番上に上げた少数派こそ社会の中でいろいろ活躍してほしいと思っている.彼らとの唯一の共通点は今のリベラル勢力はあまりに傲慢で理想主義的で特定の人の擁護にばかり回り,全体を見ていないという認識は,保守派やネトウヨと共有している.ただそれだけのことである.