推しの現場を全通してたら閉鎖病棟に入院することになった話2

離脱症状

 入院してから3日目ぐらいに薬のオーバードーズの後遺症ともいえる、離脱症状が始まった。初めは目が動かなくなり、閉じれない状況に。そこから全身の筋肉が強張り、つらくて眠れなくなってしまった。そこに手の痺れや唇の不自然な動きも加わり最悪。日記には苦しい苦しい助けてといった内容ばかり書かれている。たぶん1週間くらいは離脱症状に苦しんでいた気がする。本気で薬のオーバードーズを後悔した瞬間である。オーバードーズダメ絶対。

スケジュール

 7時朝ご飯、11時昼ご飯、18時夜ご飯、22時消灯。お風呂は週に3回。夏だったから余計に頭がべたべたして不快だった。
 週に1回シーツ交換と、売店へ買い物に行くことができる。しみチョココーンやヤングドーナツ、チョコチップクッキーなどを買って15時頃もしょもしょと食べていた。周りの人たちはお菓子を1000円〜2000円分買っていて、お小遣いが少なめだった私は全員富豪だ……と恐れ慄いていた。ちなみに飲み物は自販機でいつでも買える。

オリエンテーション

 閉鎖病棟ではオリエンテーションと呼ばれる活動時間があった。土日はなく、火曜日のみ午後、それ以外の曜日は午前にあった。その時間は塗り絵や習字、ビーズアクセサリー作りといったいろんなことができる。私はもっぱらパソコンで音楽を聴いて過ごしていた。CHEMISTRYは入っておらず残念。back numberや10-FEET、SEKAI NO OWARIなどを、DJにでもなった気分でホールに響き渡らせていた。入院の後半では、家族宛にビーズのブレスレットを作ってあげていた。
 自分について振り返る時間であるプランニングや、頭の体操のようなことをするやわらかあたま教室というものもあった。最初のうちは楽しんで出席していたが、後半は統合失調症のお姉さんと話す方が楽しくて欠席するようになってしまった。一通り出席したからよしとしておく。
 一番楽しかったのはカラオケの時間。CHEMISTRY『PIECES OF A DREAM』Da-iCE『citrus』back number『高嶺の花子さん』ゆず『夏色』YUI『Summer Song』を歌った。大変楽しかったので月に2回以上やってほしかったなー。

何をして過ごしていたか?

 大変暇な入院生活、何をして過ごしていたかというと大半は人と会話をしていた。最初の数日は友達ができなかったのだが、しばらく経ったらありがたいことに私に話しかけてくれる人が出てきた。話すのが好きな私は大歓喜。最初の頃は離脱症状のせいで唇がうまく動かなかったがそれでも楽しく会話をしていた。
 話しかけてくれた人によると、入院しているのは大半が認知症患者のため、会話ができる人が貴重なのだという。その気持ちは大変よくわかる。服を脱ぎ始めちゃうおじいちゃんや、同じことばかり口にするおばあちゃんとはまともな会話をすることができない。私と仲良くしてくれていた人は、自○志願者のお姉さんや躁鬱のおじさん、統合失調症のお姉さんといった人たちだった。彼女彼らは何度も入退院を繰り返していたり長く(といっても3ヶ月以内)入院したりしていて症状が落ち着いていたりしたため、まともな会話ができたのだ。会話の内容はご飯の話か、主治医が一緒の子とは主治医のモノマネをして遊んでいた。
 会話をする他はノートに文章を書いたり本を読んだり、タロット占いをしたり、院内をぐるぐると歩き回ったりして時間を潰していた。特にタロット占いは好評で、よく隣の部屋の人たちに頼まれて占い、不安を解消してあげていた。
 本は久しぶりに『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』『恋空』を読んで懐かしい気持ちになっていた。映画版も久しぶりに見たいな。
 院内をぐるぐるする時は、ウォークマンを流しながら歩いていた。基本的に電子機器の持ち込みは厳禁だが、なぜかラジオ音楽プレーヤーの持ち込みだけは許されていたのだ。
 ご飯を食べるホールにテレビがあったため、見ている時間もあった。テレビは一台しかなく、さらにテレビを取り締まっている患者さんがいて、その人と仲良くならないと見たいテレビを見ることは不可能だったため、早々に仲良くなるなどした。特に面白かったのはチョコレートプラネットとかまいたちの出ている『イタズラジャーニー』の再放送と音楽番組の『カウントダウンTVライブライブ』である。テレビのおかげで音楽の流行にはついていけていた。GEMNの『ファタール』に衝撃を受けて、外泊中ずっと聴いていた。あとは『マツコの月曜から夜ふかし』の再放送も楽しんで見ていた。通常の放送だと22時消灯のため見られないため再放送は貴重だったのだ。
 オセロもやっていたが途中でよくやっていた人が違う階に行ってしまいできなくなってしまった。残念。ひとりオセロもやったが全く楽しくなく断念。
 あとはしょっちゅう家族に手紙を書いていた。家族が洗濯物を取りにきたり持ってきてくれたりするタイミングで看護師さんに預けて、家族に渡してもらう。この方法で文通をしていた。

 私の閉鎖病棟生活はこんな感じであった。大変退屈な日々だったのは間違いないが、人と話している時と文章を書いている時だけは楽しかったため、私が本当に好きなのはこの2つなのだということを自覚することができた。閉鎖病棟で楽しく話してくれた患者さんたちがみんな少しでも健康に過ごせていることを祈っている。

 

 


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