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一人と六姉妹の話 10

そして実際、皆ここが苦手だったのだろう。祖父の兄弟は十人もいたし、嫁とその子供たちもいたし、かつてこの家は足の踏み場もないほどの大所帯であったはずだが、一人、二人と家を出て、私が物心ついた頃には祖父母と曾祖母という年寄り三人だけの静かな家になっていた。もちろん、かつてここで暮らしていた人たちが皆自らの意志で家を出たわけではないと思う。祖父の弟妹たちのうち数人は口減らしのため都会に出されているし、その人たちは郷愁に駆られ、度々東畑の家を訪ねてきた。だが、喋る言葉もテンポも違うその人たちにしても、祖母と曾祖母の対立に滲み出る重苦しさが、何かその振る舞いを制限しているようなのを私は見過ごせなかったし、だからこそその人たちは長居もしなかった。そして当の祖母にしても、東畑の家を出て長崎の伯母のところへ移ったのは、娘に面倒を見てもらうためというより、こんな身体になった以上はもうお役御免でいいでしょう、という、自発的な縁切りのような意味合いだったと聞いている。事実それから祖母は一度も東畑に帰っていない(ちなみに、常に不変の姿であった曾祖母も、最後は風邪をこじらせたのをきっかけに病院に移り、何日も経たないうちにあっさりと亡くなった。結果この人は祖母より長く東畑に残り、祖母より長く生きた。よく分からないが、その事実を見ても、やはり実は相当にしたたかな人だったのかもしれないと想像したりする)。

結局、家には家長である祖父一人が残った。家事の一切は女任せだったため、家はすぐに荒れた。古いけれど隅々まで掃除の行き届き、几帳面に物の整理された家はあっという間にただのぼろ家になった。戸締りがおろそかで雨が降り込み、床は傷むし、立て付けは悪くなるし、挙句は野良猫やらイタチやらが入り込んで食べ物を漁るようになった。鹿が庭まで入り込んでくるようになった。しかしそうした荒廃はこの家だけに限ったことでもなかった。事あるごとに集まっていた年寄りたちが一人また一人と減っていくたびに、空き家や耕作放棄地が増えた。そしてそこへ続く道は緑に埋もれやがて消えた。管理人としての責任を負っている私の父らが度々様子を見に戻り、最低限の手入れはしているものの、今や東畑は将来的な消滅が容易に予想される、立派な限界集落である。

しかし集落がそうした衰退の兆候を示し始めてから、私はこの場所に度々足を運ぶようになった。ここ十年ほどの話である。それはちょうど私が東京での仕事に疑問を感じるようになった頃と重なっている。いや、疑問と言ってしまうと言い訳めくが、そんなもっともらしいことではない。一言で言えばどうでもよくなってきた。元も子もない話である。

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