重荷 7
「で、あれは?」男は隙のない笑顔を保ったまま言った。
「ホテルに置いてきました」
男の表情が強張ったのが分かった。だがそれはほんの一瞬のことで、男は貼り付けたような笑みを崩さないまま、私には聞き取れない早口で運転の男に何か言った。運転の男は黙って出て行った。
「そうですか。まだ数日ありますからね」男は私に言った。
「ええ」
負けてはいけない。私はそう自分に言い聞かせた。
「そうだ。ちょっと待っていてくださいね。××××?」
男は楽し気にそう言うと、部屋の一隅にあるキッチンのほうへ歩いて行った。
「すいません。ここの言葉には不自由なもので」
「ああ、それは失礼。メールの印象ではてっきり完璧なのかと」
「読み書きだけです。できるのは」
「ほう、それは興味深い。日本語の読み書きなんて、私は考えただけで」
男は手元で何かを準備しながらおどけて顔を顰めてみせた。私はその表情を一瞥しただけで窓の外に視線を転じた。これ見よがしに広がる眼下の景色は、夜の闇さえこの街の輝きを覆い隠すことはできないと言わんばかりに眩く、非の打ち所のない美しさだった。だがその一方で、実はこれは馬鹿でかいガラス窓に貼られた写真に過ぎないのだと言われたとしても特に違和感はなく、飽き飽きするほど何度も見たことがあるような気がするばかりで、何の印象も受けなかった。
コーヒーの匂いが漂ってきた。とびきり高級な豆を使っているということは、嗅いだことのないほどの強い匂いからも明らかだった。そしてさっきはコーヒーを飲むかと聞かれたのだと思った。また男の極めて自然な振る舞いからも、それは純粋に答えを求めたのではなく、それを断る人間などいるわけがないという前提のもとに発された、単なる儀礼的な質問だったのだろうと思った。
だが私はコーヒーは飲まなかった。匂いを嗅いだだけで頭が痛くなる。私は何とかその匂いから気を逸らそうと強く拳を握った。負けないでいられるか? 私は自問した。最後まで自分を保つことができるか? しかし、保つも何も、ここでは私は何者でもない。この男にとって私は名前もない、性別もない、言葉もない。一切の背景を欠き、つまり人間ですらない。辛うじてここにもたらしたのははるばる日本から来たという風変わりな匂い、それだけだ。
悪い兆候だった。内側にこびりつくような頭痛は、次第に吐き気と結び付きつつあった。
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