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存在しない人 12
通された部屋からは海が見えた。油絵のような質感の硬く重い雲が空には垂れ込め、昨日までの穏やかさが嘘のように波はどす黒く荒れ狂っていた。もっとも、訳の分からないタイミングで激昂する人のような海の二面性を彼はよく理解しているから、そのような光景を前にしても普通は何も思わない。だがこの時彼は、あの男はどうなるのだろう、と思った。この嵐の中であの男はどうしているのだろう。それは切実な心配というよりも、退屈任せに壁の染みに何かの形を見出そうとする程度の思い付きだったかもしれない。だが、他人との接触を断ち、独力の船上生活を始めて以来、彼の意識がそんな風に焦点を結んだことはなかった。
彼は海を眺めた。吹き付ける風はますます勢いを増し、建付けの悪い窓はカタカタと音を立てた。彼はガラスに顔を近づけ、波間に目を凝らした。何か人の頭のようなものが見えた気もした。男に会った海域からの距離を考えれば、それが男であるわけはなく、この辺りの漁民の浮きか何かだということは明らかだった。しかし僅かでもそこに可能性があるのではないかと考えるのが少し楽しかった。そうして何時間も過ぎた。時折、赤ん坊の泣き声やバタバタと廊下を歩き回るスリッパの音が聞こえた。部屋の明かりもつけないまま、重苦しい曇天が完全な闇に取って代わられるまで、彼は海を見続けていた。
激しい空腹で目が覚めた。突き刺すような日差しが眩しい。身を起こして外を見ると、波は未だ高かったが、空気中の塵は一掃され、柱のような日差しが海に付き立っていた。
部屋を出て、カウンターで朝ドラを見ていた年増の女に彼は声をかけた。
「この辺りに何か食事ができるところはありませんか」
「朝ごはんはパンケーキなんですよ、うち。宿泊のお客さんにはサービスで」
女は早口で言いながら立ち上がったが、テレビから視線を外そうとはしなかった。そして番組が終わると「ああ、お待たせ」と言って笑った。その笑顔が意外と若々しく、案外この女は自分と同世代なのかもしれないと彼は思った。
ガラクタの散らかった建物の裏を女について行くと、改装時に余った材料を使ったらしい白い小さな箱のような店があった。見るからに安普請で、陰鬱な磯の臭いが抜けきれず、床は剥き出しの土間だったが、プラスチック製の真新しいテーブルセットが三組置かれていた。奥には取って付けたような厨房とカウンターがあり、抱っこ紐をした若い女がそこに立っていた。若い女は彼が入って来るのを横目で確かめると同時に生地を焼き始めた。