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一人と六姉妹の話 16

だが人生とはそういうものだろうとも思う。慣習的な補助線やデフォルメを用いなければその輪郭さえ掴めない。そうした便利な道具を使わず、細部まで忠実に正確に描こうとすれば、途方もない労力を要した挙句、矛盾に満ちた破綻だらけの巨大な化け物が出来上がるのがオチで、例えばプルーストのあの長大な物語――読者の忍耐力を試しているとしか思えないほどの詳細な情景描写、固有名詞の羅列、複雑な感情の働きの説明に次ぐ説明――そうしたものを苦労して最後まで読み通したとしても、結局プルーストという人に何があったのかということは全然分からないのだ。気が遠くなりそうな字数を費やして、微に入り細を穿つ記述を通して、結果、謎の一文字しか浮き上がってこないのだ。だがそれはプルーストが嘘をついているとか、何かを隠しているということではなく、むしろ逆で、そこに書かれていることが全てなのだ。「結局」も「本当」もない。答え合わせできるような正解は初めからない。

降って湧いたように私達の眼前に現れたこの人がそんなことを考えていたかどうかは知らない。しかしこの人が断片的に残した人生の痕跡は、ことごとく安易な推測や要約を拒んでいた。一言何か口にするだけでも「それは違う」と即座に否定されるような厳しさがあった。ただその徹底的な謎の残し方から察するに、おそらくこの人は極めてまっとうな生き方をしたのではないかと私には思われた。まっとうというのも変だが、この人の時代における女の生き方という補助線を一切用いず、逆にそこから外れるというのでもなく(そもそも「外れる」というのは何が正当かということをしっかり意識していないとできないことだ)、あくまで自分自身に忠実に生きたのではないか。もちろんそれも私の視点からの解釈に過ぎず本当のことは分からない。もしかすると全然違うかもしれない。しかし少なくとも言えるのは、この人非常に面白い人だったのではないかということだ。プルーストの話は結局よく分からないが、なぜかただとても面白いというのと同じように。

私は考えるのをやめた。面白い人がいた。祖母を経由して、割と近いところに。それだけで十分なのかもしれない。自分自身が死んだ後のことを考えても、行いを逐一詮索され評価されるより、時代の中のどこに位置づけられるかを解釈されるより、単に面白いと思ってもらえるほうが嬉しい。偉いとかすごいとかなるほどとか言われるよりも、それが一番の生きた証のような気がする。

それでこの件に関する折り合いはついた。追加される情報もない中で、親戚たちの胸中に沈んだ石ころもだんだんと他の雑事に取り紛れ、存在感を失っていった。事務的な手続きだけを済ませれば、元と同じ無に帰して、誰かが思い出したように呟くと、ああそういえばと表面に浮かんでくるものの、浮力を保つほどの燃料もないからまた沈んでいくだろう。そしてやがて誰も思い出しもしなくなるだろう。

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