重荷 23
壁に手をつきながら、奥へ奥へと進んでゆく。落ち着こう。冷静になろう。おかしいことも、間違っていることも何もない。嘘なんかじゃない、これは現実、これは現実、この違和感はただの気のせい、時差ぼけのようなものだ。慣れない環境だからだ。ちょっとまだピントがずれているだけなのだ。ここは素敵な街。見どころがたくさん。本に書いてあったろう。難しく考える必要はない。この街の魅惑的で楽しげないざないにそのまま身を任せればいい。それを妨げるものはない。何もない。もう何もない。もう全部終わったのだから。
その時、つま先が何かに触れた。視線を転じるとそこには黒い山のようなものがあって、初めは一瞬、表のカフェから出たごみの袋が転がしてあるのかと思った。だがそれは人の身体で、そうと分かるのは視覚的な情報よりもはるかに揺るぎなく、間違えようもないその臭いのためだった。その男は壁にもたれて座った格好のまま向こうに横倒しになっていた。つま先が触れたのは男の太腿の裏側だったが、反応がないというだけでは到底しっくりこないその感触の鈍さ、重たさから、多分死んでいるのだろうと思われた。
その身体を乗り越えて、なおも私は進んでゆく。早く、ねえ、慣れよう。もうこんなのいいのよ。何もかも終わったのよ。ねえ、そうするほうが落ち着くんだったら好きにすりゃいいけど、本当に、もういいのよ。暗い方暗い方へ入り込んでいくようなことはもうしなくていいのよ。もうあんたの心配の種は消えたんだから。お金もあるしね。だから後は楽しく、そう、いいことにだけに目を向けて、気分良く過ごすことだけに努めて。もう何もないのよ。空っぽ、そう、空っぽだっていうことは、つまり自由だってことなのよ。
死んでいると思っていた男が「うう」と呻いたので反射的に振り返ると、光の差し込む隙間から、陽気なオープントップバスがこちらへ近付いてくるのが見えた。
さ、行こう。今は思い切り楽しもう。そして英気を養って、心機一転、改めてまた続けましょう。
頭の中で囁くその声を聞きながらバッグを開けた。満ちていた石鹸の香りがどっと溢れ出し、倒れたままの男が薄く開いた黄色い目が暗闇の中に鈍く光ってこちらを見ているのが分かった。
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