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一人と六姉妹の話 6

私はどこから来たのか。私は歴史の中の、世界の中のどこに位置づけられるのか。一体私は誰の子供なのか。つまりはそういうことなのだ。考えれば考えるほど分かることが何もない。孤立無援のみなしごのような気持ちになってしまう。

まあしかし、愚痴を言ってもしょうがない。1940年代を最近だという感覚からすると、生命体としての人間の寿命などほとんど一瞬みたいなものだ。今私の傍らで歌っているニック・ドレイクなんて26で死んでいる(に、26……!)。自分の置かれた文脈がどんなものであれ、何かをなすにはその間しかないわけだ。それなら限られた時間の中で分からないことの不満を訴えるより、いくらしょぼくても最低限分かることに目を向けなければなるまいよ。少なくとも自分が今生きているという事実は、既に死んだ作家たちに対する大きなアドバンテージと言えるのだろうから。

私が知っている中で消えた二女に最も近かった人は、言うまでもなく祖母のスミエさんだ。この人のことを思い出してみよう。何か手掛かりが見つかるかもしれない。

この人については、六人(七人)姉妹の末っ子で、特に教育を受けたわけでもない平凡な田舎の農婦だと既に述べた。1931年生まれで、亡くなってからもう五、六年が経つだろうか。その辺りの記憶が曖昧なのは、祖母は私が上京した後の2000年前後に持病のリウマチが進行して車椅子生活になって、それを機に長崎の伯母のところへ移り、気軽に会える距離感でなくなったことに加え、脳梗塞が原因だったか、亡くなる数年前からは植物状態が続いたため、死という事実を見ずとも私の認識の上ではゆっくりとフェイドアウトしていたからだ。だから実質的にその思い出は約二十年前で止まっている。

祖父母の家は東畑という集落にある。東畑。今日は東畑に行かな。――それは子供の頃の私にとって本当に陰鬱な響きの言葉だった。集落の外に住んでいるものの、父は長男なので祭りや法事や農作業の手伝いなど何やかやで駆り出される。嫁である母もそこにはいないといけないので、私も連れて行かれることになるのだが、山を越え、車の窓から谷合に固まる三十軒ほどの集落が見えた時点で、感情が無になる。今日という一日に期待できるものは何もない、と、子供心にも諦念が固まる。

福岡は、微妙なところではあるが気候帯としては日本海側に入る。特に冬場の降雪量は、南国九州のイメージを大きく裏切るものだ。その中でも東畑は最も多く雪が降るところの一つで、冬場には道が閉ざされることも珍しくない。平地と比べると気温も低い。その体感の違いと、集落全体に漂う独特の乾いた土の匂いのせいで、二十分ほどのドライブにもかかわらず、やけに遠いところに来た感じがする。

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