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存在しない人 3

男はTシャツと短パンといういでたちだった。その軽装はまるで仲間内でふざけて海に飛び込んだかのような気楽さを感じさせる。そしてそれゆえに彼の二つ目の考えもまた否定された。地政学的には考えにくいものの、この男に関して、彼は難民の可能性もあると踏んでいたのである。もっとも、身に着けているものだけで正体を断ずることはできない。しかしやはり遠目からの印象は間近で見ても変わらない。必死さがない。悲壮感がない。だがその一方で、男は決して遊び半分に泳いでいるわけでもない。流されているのでも、漂っているのでもない。ただ何か確固たる意思の働きによって懸命に前進していることだけは分かる。だがその目的は分からない。

それは結局のところ、大きな魚が泳いでいるのに似ていた。いつ眠るのか、疲れないのか、漠然と気にならないこともないが、本当にそんなことを気にしていてはきりがない。どこから湧き出てくるのかも分からないエネルギーによってただひたすらに進み続けるその姿は、彼我の世界が未来永劫交わることがないということだけを示唆している。彼はまさにそのような印象を受けた。そしてそれゆえに、泳ぐ男をしばらく無の感情で見下ろしていた。

だからそれは、グラスボートの中から魚と目が合ったようなものであった。きっかけは些細なことだった。水を掻く手が大きな波頭にぶつかった。まともに飛沫をかぶった男は泳ぐスピードを緩めた。そして平泳ぎの体勢に変わると、口に入った塩水を吐き出して頭を振った。それから瞬きを繰り返して視界を確保し、再び泳ぎ始めようとしたその時、男は振り上げた腕の下から彼の姿を視界に捉えたのだった。

男は彼に視線を据えたまま泳ぎ続けた。彼もまたぼんやりとそれを目で追った。それは二度と会うことのない者同士の刹那的な邂逅であり、誰にも止めることのできない自然現象のように、過ぎ去るのをただ眺めているしかない瞬間だった。少なくとも彼はそう思った。しかしその時、男は進むのを止めた。そして、浮かんでいた身体をすっと立ち泳ぎの姿勢に変えると、彼の方へと向き直った。それはまるで、眺めていた絵画の中の人物が突然動き出したようなものだった。冷静に考えれば、それはまさにこちらの道理が破られんとしている瞬間に他ならない。だが、その有無を言わさぬ写実性のために、一瞬、それもまた自然なことかと納得させられかける。この時の彼の落ち着きはそうした錯覚からくるものであった。そして男はその隙に滑り込んでくるような格好で、悠然と水を掻き、彼の船を目指して泳ぎ出した。


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