存在しない人 1
日課の運動を済ませると、後はすることがなかった。東の空が白く輝いている。剝き出しの背中でその光を受けながら彼はデッキチェアを広げた。クルーザーは置き忘れた玩具のように洋上に浮かんでいる。梯子段の下で蠅のようにぶつぶつ呟き続けているラジオを消すと、船体を洗う波の音の他には何も聞こえない。ゆっくりと彼は椅子に身を預け、脚を伸ばす。どこまでも続く凪の海がその目に映る。光は生命のエネルギーをあまねく吸い上げながら加速度的に強さを増している。その力が臨界点に達するのもまもなくだろう。そうなれば世界は平板な白一色となる。時間の感覚は失われる。
喉の渇きを感じた。彼はバランスを取りながらゆっくり立ち上がると、船室へ続く重いドアを開けた。白いレザー張りのソファの間を、揺れる水面の上を歩くように通り抜ける。二段ほど降りた奥にはギャレーがあった。大理石風の設えの引き出し式冷蔵庫からボトルの水を一本取り出すと、軽く口に含む。そして調理台の籠のリンゴを一つ手に取り、無駄のない手つきで剝き始めた。
彼が窓外に目を転じたことに深い意味はなかった。海と空、そしてその二つの区別さえなし崩しにしてしまう陽光しかない景色は、正確には景色とさえ言えない、ただの色でしかなかったし、撫でるような微風やそれが作るさざ波も、全体で見れば何も動いていないのと同じことだったからだ。そんな無の中にもう数日か、数週間か、数か月もの間暮らしている彼自身、もはや自分と外の世界との境目を意識することもなかった。だから単にその行為は、すこぶる健康で、ますます研ぎ澄まされて行く一方の肉体による、息継ぎのような無意識の運動の一部に過ぎなかったのかもしれない。
初めは痛みとして感じられた。その痛みが指先の傷によるものとは、しかも自分の身体同然に馴染んだナイフで自ら創った傷によるものとは、最初は信じられなかった。だがその確かな痛みと次第に滲み出る赤色の鮮やかさによって、彼は自らが目にしたものが確かに現実であると悟らないわけにはいかなかった。
波間に人の姿があった。だがここは、陸地も見えない外洋である。波こそ穏やかではあるものの、岸から泳いで来ることのできるような距離でもなければ、彼のクルーザーの他に船の類も見当たらない。魚がはねたのではないか、と、まず彼はあり得べき方向に自らの考えを誘導しようとした。だが周囲のあまりの単調さゆえ、彼の見たものを否定する材料さえ何も見出すことができない。そしてそもそも彼の動物的に恵まれた視力が対象を見誤るわけもなかった。
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