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存在しない人 17

その態度は自暴自棄とも異なるものだ。あの男は何かに絶望したことがない。というより、絶望するほど何かに期待したことがない。そんな記憶がどこにもない。だから悔いも恨みもない。棄てるほどの自分がない。あの男は健康だ。すこぶる健康だ。痛みも苦しみも感じず、老いや衰えとも無縁、歪みのない単線の上を規則的に行ったり来たりするだけのあの男にあるのは極めて頑強な肉体だ。パフォーマンスのためでもなく、魅せるためでもなく、ただ働くという意味において、一定の動作を延々繰り返すという意味において、人類の最高傑作と言っても差し支えないほど完璧な肉体だけだ。これを止めることができるのはただ死によってのみだろうが、万人に平等に訪れるという死でさえ、果たしてあの男を捉えることができるかどうか。あの男はそれほど遠く、遠く、生き物の営みから隔たった場所にいる。文字通りの荒波に揉まれているというくせに、自分の置かれたそんな状況さえどこか高みから見下ろしているかのようだ。あの男は孤独だ。孤独を孤独として感じることを知らないほど、あの男は一人だ。

彼は船を止めた。何事もなかったかのように空は晴れ渡っていた。巨人が退屈任せにゆっくりと水盤を傾けているように時折船は上下した。だが嵐の名残と言えるのはもうそれくらいしかなかった。

彼はデッキに降りると伸びをした。不規則な一晩を挟んだせいで、身体のあちこちがこわばっている。彼は丹念にそれを伸ばした。止まったような時間の中、身体が訴える些細な違和感だけに従って、緩慢にさえ見えるような動きを幾度となく繰り返した。そうして輪郭の僅かなブレをも正しつくし、身体と周囲の光との境目が次第に曖昧になってきたことを感じると、彼はデッキチェアを広げ、その上にゆっくりと身を広げた。ぼんやりと目を開けてそこに映るものを眺めたが、そこに映るのはただ刺すような白一色で、何が見えているのかも分からなかった。瞼を閉じても変わりはなかった。

どのくらいの時間が経過したのだろうか。彼はおもむろに立ち上がったが、その理由が喉の渇きのせいだということには自分でも初め気が付かなかった。突き動かされるように彼は船室へ続く重いドアを開けると、バランスを取りながら、白いレザー張りのソファの間を通り抜けた。ギャレーの冷蔵庫からボトルの水を取り出すと軽く口に含んだ。そして調理台の籠のリンゴを一つ手に取り、無駄のない手つきで剝き始めた。

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