ヤモリ 5

「忘れました」
直子は言った。その言い方があまりにも毅然としているので、講師は一瞬そのまま通り過ぎようとしたくらいだった。

直子はこの塾に小学五年の頃から通っていた。他の生徒たちに比べて進みが早いので、普通のテキストとは難易度の異なるテキストを与えられ、同じ教室の中でも一人だけ別のカリキュラムをこなしていた。真面目で呑み込みが早いため教えるほうも面白いらしく、講師は直子一人の指導に力を入れたがったが、なるべく分け隔てなくしてほしいという本人の強い主張から、宿題は他の生徒たちと同じものに取り組むことになっていた。もちろんそれを忘れたことも一度もなかった。
「珍しいな。どうした」
「もう一枚ください。次までにやってきます」
「そうか」
それ以上踏み込めない雰囲気を察し、講師は通り過ぎた。

直子はおもむろに自分のテキストを開き、数式と対峙した。どの教科にも瑕疵はなかったが、特に数学はそれだけに没頭していれば他のことを何も考えずにいられるから好きだった。清潔で緻密で無駄のない数字を直子はぎっしりと書き連ねた。手が止まるとページの影にあの小さなものの気配が動き出すような気がしたが、複雑な数式の整頓にせっせと勤しんでさえいれば、その幻影も窒息させられるような気がした。宿題をしてこなかったことを案の定叱責された有馬が、隣の生徒にちょっかいを出しながらもちらちらとこちらを見ているのは知っていたが、そんなことは意識の端にも上らなかった。

帰り道でも直子は頭の中を数字で埋め尽くすことに努めた。家まで何歩で帰れるか。一歩当たりの長さと速度は。信号が変わるまでの秒数は。直子は目に入るもののすべてを解釈しようとした。意味がないことは分かっていたが、意味など初めから必要なかった。

その努力を不躾に遮ったのは有馬だった。有馬は、別の中学の生徒たちと一緒に騒ぎながら直子よりずいぶん後ろを歩いていたが、別れて一人になった辺りから歩調を早め、いつの間にか直子のすぐ後ろにまで距離を詰めていた。
「楠本さんも忘れることあるんだね」
有馬はなれなれしく言った。直子は振り返らずに歩き続けた。だが有馬は、反応を貰えないのも織り込み済みだと言わんばかりに一人で続けた。
「ねえ、内申どうだった? すげーんだろうなー。俺めっちゃやばいよ、マジで。あーあ。楠本さんさあ、橋高の特進受けるんでしょ? それともどっか私立行くの? すげーんだろうなー。あーあ」
交差点が見えた。あそこまで行けば道は分かれる。直子は足早に歩き、やがて有馬が曲がる角に着いた。直進しようとする直子の後ろから、有馬が声をかけた。
「ねえ楠本さん」
直子はそのまま行きすぎようとした。しかしその背後から有馬は言った。
「ねえ楠本さん。何かあった?」
直子は一歩踏み出しかけて、止まった。そして有馬を振り返って睨んだ。思わぬ直子の反応に、有馬は一瞬立ち竦んだ。
「ない」
直子はきっぱりとそれだけ言い残すと、まっすぐに歩いて行った。


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