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重荷 19

シャワーを浴び、全身に膜のように貼りついて感覚を鈍らせていたものを何もかも洗い流すと、初めて激しい空腹を覚えた。そういえば何も食べていなかった。機内食にも手を付けなかったから、前にいつ食べたのか覚えてもいない。それに何より、外へ外へと気持ちが急く。いても立ってもいられない。こんなに素晴らしい天気なのにいつまでも部屋の中にいるなんて。せっかくの旅先でじっとしているなんて。

私は部屋中に引きずり出された荷物の中から、この街の天候を見越して新しく買った服を探し出した。そしてさっぱりと身支度を整えると部屋を出た。今度はエレベーターでメイドと乗り合わせなかった。受付も空っぽだったから、どこかこの辺りで食事をするのにいい所がないかと誰かに尋ねる当ても外れた。

適当に歩いて探そうか。それが一番面白そうだったが、この飢餓状態は如何ともしがたい。仕方なくショルダーバッグからスマホを取り出し、店を調べようとしたその時、片言の日本語で声を掛けられた。
「アメ、フッタネ」
いつの間にか傍らにドアマンが立っていた。
「アメ、メズラシイ。アナタ、ラッキーヨ」
来た日には見かけなかった浅黒いその中年男は、異様に近い距離感で、長年の媚びがそのまま固まってしまったような笑みを顔に張り付けている。どこかよく訓練された猿回しの猿のような印象を受ける。私は男に食事の場所を尋ねた。される質問はいつも決まっているのだろう、男は私の言うことを最後まで聞きもせずポケットからペンとメモ帳を取り出すと、慣れた手つきでさらさらと地図を書き始めた。それを受け取り、礼を言った後も男は何かを待っている。それを見て私はようやくこの国のチップの習慣というものを思い出した。それで財布から当てずっぽうに紙幣を取り出すと男に一枚渡した。

私は歩き始めた。まったく、あの土砂降りは何だったのだ。空は雲一つなく晴れ渡っている。日差しは強いが、湿度が低いせいなのか暑さはそれほど感じない。あれほど次から次へと視界に覆いかぶさってきた汚いものや壊れたものも、この遮るもののない光線の下では反射する白一色に飛ばされてしまっている。臭いも乾いて消えてしまったみたいだ。コーヒー片手に高層ビルへと吸い込まれて行く身なりの整った人の群れ。活気に満ちた都市の朝。そうだ。これだ。私が本で見ていたのはこの景色だった。

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