もらいもの(仮)30
私はゆっくりと伸びをした。そして頭を左右に倒し、それからぐるりと回すと、今度は敢えて念入りに肩を回した。遠くからあの男がこちらを窺っているのは振り返らなくても分かる。じりじりと落ち着かず、道行く人が避けて通るほどに陰気で鋭いあの視線を辺りに走らせながら歩き回っているはずだ。通報でもされるかもしれない。だがいい。あんなもん勝手に待たせておけばいい。日々のルーティンを守ることこそ命に等しい重大事だと思い込んでいるのかもしれないが、それにしたってあの男も四六時中働いていることもないだろう。
「それにしてもさ、あんたいつからここにいるの?」私は隣の相棒に言った。「寝るとこあんの? 雨の日とかどうしてんの? ねえ。意外と趣味でこんなことやってるんだったりして。そういう話あるよね。ほんとのところどうなの? 実はすごい金持ちなのに好きでそういうことやってるとかいうの。見たことある?」
相手は何も答えない。
「ていうかあんたも意外とそこら辺の猫みたいにいろんな人から食うもんもらってたりして」
あの男が背後で距離を縮めてきたのを感じる。もちろん近付きすぎはしない。声を掛けてくることもない。これは単にあの男の堪え性の問題で、この状況に痺れを切らしたというだけのことだ。私はあの男以外にはそうと分からないほどさりげなく手を挙げてそれを制する。犬に命令するように。
「何か喋ってくれてもいいのにね」
私は傍らの小石を拾うと立ち上がり、池に投げた。波紋が広がる。私は腰に手を当て、その輪が水面にゆっくりと溶けていく様を見守った。
「そんじゃ、また明日」
私は反応のない相手にそう言うと歩き出した。後をつけてくるあの男の安堵感が離れていても伝わってくる。その足を一歩踏み出すかどうかの判断すら自分ではできないのだから哀れなものだ。それにしてもあのホームレスはどこかおかしいのだろうか。もちろん普通の精神状態でないことは確かだが、耳が聞こえていないのか、あるいは目も見えていないのか。もっともそんな風に考えると、生きているのかどうかという点も怪しくなってくるが。私は毎日せっせと朝食を運んでやっている相手が実はよくできたミイラだったという想像の馬鹿馬鹿しさを思わず鼻で笑った。
その時だった。初めは風として感じられた。空気の塊が押し寄せてくるような感じだ。その圧に思わず振り返ろうとした瞬間、何か大きなものが水に落ちる音を私は聞いた。
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