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閉ざされた扉

もう最近はこんなことあまり言わないほうがいいのかもしれないと思っているが、あのドアに誰も気が付かないのがやはり不思議でしょうがない。本当に気付いていないのか、気付かないふりをしているのかも分からないが、これだけ目につく場所に、しかもあちこちにあるのに気が付かないというのは個人的にはあり得ない気がする。

そんなことばかり考えているうちに外に出るのも億劫になってしまった。でも仕方なく出なければいけない時、やはりドアは目につく。その辺の道端のコンクリート壁にもあるし、貸家の入口という格好をしていることもあるし、もちろん普通のビルに非常扉みたいな顔をして平然と貼りついていることもある。たまに運転する時なども、道路脇の草藪の中などに朽ちかけたドアが突き立っているのを見つけることも珍しくない。

そんなことをKにぽろっと話したことがあった。「え? 何のこと?」とKは言った。もちろん自分でもこれは他人に通じることではないという自覚があったから、その反応も想定内といえば想定内だったのだが、日頃あれだけ話の分かる、勘の良いKですらそうなのだと考えると、やはりこんなことを気にするべきではないとその時は思った。

だがいくら気にしまいと思っても、あるものはある。どう見てもある。その事実だけはどんな努力をもってしても曲げようがない。そしてそれに伴う記憶もまた消しようがない。本当に誰も知らないのだろうか。あのドアを開けると西鉄天神駅の改札前に出るのである。歯の矯正に通うのに子供の頃使っていたのだからそれは間違いない。それで浮かせた電車代で帰りにアイスを買うのが常だったのである。それを楽しみに行っていたのである。この記憶そのものがまやかしだというのだろうか。毎月通っていたのに?

だんだん自信がなくなってくる。だがもう今となっては確かめる気力もない。ドアの多くは錆びつき、いかにも開きそうにない。まだ新しいものもあるが、何とはなしに、開けることを初めから想定していないように見える。とは言え、そういう特徴は昔と何ら違わない。古いものは古かったし、他に使っている人を見たことがないという点でも変わらない。変わったのはノブに手を掛けようと思わなくなった私のほうなのだろう。

これが一体何なのかを追求しようとは思わない。ただこれに誰も気付かないことが気持ち悪くて仕方ない。本当に誰にもあれが見えていないのだろうか。見えているのに何も思わないのだろうか。開けた先に何があるのか本当に知らないのだろうか。それとも、知っているのに興味がないのだろうか。

そんなことを口に出して誰かに訴えるのは惨めだし、いくら考えても答えはない。だからやはりもうこのことは考えないでおく以外にない。だから福岡に行く用事がある時も、今は高い金を出して飛行機に乗るか、長い時間をかけて高速バスに乗るかしているが、移動の最中はどうしてもやはり釈然としない気持ちになってしまう。

2022-07-21

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