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存在しない人 10

彼は普段夢を見なかった。だがこの日、棺のような寝室にその身を横たえた彼の脳裏には男の後ろ姿が繰り返し浮かんだ。眠っているのか起きているのかも分からないその意識の中で、一瞬の美しい構えが、音もなく海に吸い込まれて行くその跳躍が、何度も何度も再生された。何かを思い出すような気がした。誰かにとても似ているような気もした。だが彼はそれ以上の関心の持ち方を忘れていた。何かを説明するための言葉を手放していた。あるかないかもはっきりしない細い線を無理やり繋ぎ合わせたところで、笑ってしまうほど荒唐無稽な形しか浮かび上がってこないということを彼は分かっていた。しかしその姿は繰り返し繰り返し眼前に現れた。それが嫌悪によるものなのか好意からのものなのかも分からないまま、それは彼の中に焼き付いてしまった。ただ、あの男はまた来るだろうという確信だけがあった。日が昇り、また沈むように、抗えない運動としてあの男にはまた会うことになるだろう。会う以外にないだろう。

だが翌日は雨だった。珍しく海も荒れ模様で、しばらく収まる気配もなかった。彼の生活は世の中と断絶していたが、決してそれを貫くことを目的としているわけでもない。そのためこんな日に無理をして沖に出ている必要もなかった。燃料も食料も蓄えはまだ充分にあったが、早目の補給も兼ねて彼は近くの港へ船を向かわせた。

その港はこの海域の群島の中で最も大きな島にあった。とは言えそれは、学校といっても中学までしかない程度のささやかな漁村に過ぎず、港にひしめく小型漁船の中で彼のクルーザーは嫌でも目立つ。陸に上がっても、目抜き通りには「コンビニエンスストア」という看板を掲げた個人商店が一軒とガソリンスタンドが一軒開いているだけで、人の姿はおろか走っている車もない。辺りは死んだように静まり返り、傘をさして歩く彼を漁師の家の土間から年寄りが怪訝そうに覗いていた。

陰気な家並みが途切れると、ところどころ岩が剥き出しの草地が広がっていた。傘を上げ、道の先へと視線を転じると、転げ落ちそうな断崖の上に三階建ての白い建物が建っている。光るようなその白さは比較的最近手入れがされたものである気配を感じさせた。しかし近付くにつれ、それは単に潮風に侵食されかかった外観を安上がりに繕おうと、思いつきでペンキを塗りたくったものに過ぎないことが分かってきた。

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