ヤモリ 3

直子は有馬を振り切って歩き出した。しつこく呼び止められたような気もするが、気にする余裕もなかった。今まで抑えていた分が一気に噴き出したかのような激しい動揺に直子は囚われた。どうしよう。またあの部屋に入らなければならない。どうしよう。どうしよう。どうしよう。

終業式で校長の話を聞いている間も、本棚の裏へ滑り込んだ小さな影、その生々しい身のくねらせ方と思いもよらぬ素早い動きの残像は直子の脳裏で蠢き続けた。こうしている間にでも出て行ってくれているといいけれど、と直子は思った。確認する余裕もなかったために、窓や網戸はそのままにしてあった。入れたということは、出られるということじゃないかな、と直子は考えた。部屋の中にいても餌になるようなものは何もない。そんなところにわざわざ好き好んで居続けるものかしら。しかしその時、まるでその横面を叩くかのように、暴力的な別の考えが浮かんできた。あれが入れたということは、今開いている隙間から、他のも入れるということかもしれない。

「……大丈夫?」
通知表を渡される順番を待っている間、両手で頭を支えていた直子に隣の席の安藤が声をかけた。安藤は直子とあまり接点のないグループに属していたが、大雑把で悪気のない性格で、自分より直子の成績のほうをいつも気にしていた。単にそれを見て感心したいがためで、今回も隣に座る直子のテストの点数を逐一見ていたので、それがどんな成績となって反映されるのか直子以上に期待していたのであった。
「うん」と直子は青ざめたまま笑顔を作った。
「いいよねー、楠本さんは。何も心配することなくて」
「いや……どうかな」
そう言うと直子は気力を振り絞り、姿勢を繕った。そして縋るべき杖を探すかのように、頭の中を整理しようと努めた。そもそも、なぜヤモリが入ると嫌なのか(そうだ、根本に目を向けることが大事だ、と直子は心の中で呟いた)。直子は、ここまでヤモリに動揺する自分のことを今まで知らなかった。むしろ台所に毎晩貼りつくヤモリのことは好ましく眺めていたし、道端でミミズが死んでいるだけで大騒ぎするクラスメイトのことも、やれやれ、と思っていたくらいだ。ヤモリは悪さをしないことも知っている、不快な害虫を食べてくれるという益さえある。しかし害虫でも何でもいい、虫が入ってくれたほうがどれだけましだったろう。あの何を考えているか分からない、しかし確実に何かを考えていそうな生き物が入ってくるくらいなら……。そう考えると、直子はまた頭を抱えた。

ぼんやりしているうちに名前が呼ばれ、直子の通知表は安藤の手に渡っていた。級友たちはその素晴らしい評価を目にして我が事のように騒いだが、直子は周囲から見えもしない隔たりの中に、一人、身を置いているように感じていた。この人たちの部屋にヤモリはいない。でも私の部屋にはいる。成績なんてどうでもいい、それよりヤモリがいるんだよ。部屋にヤモリがいるんだよ。……

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