ヤモリ 29
有馬は再び女を見た。小柄な女はその真っ黒な瞳で必死に何かを訴えていた。しかしそれは逃げろと言っているのか、助けてと言っているのか、もともとの言語の違いのように隔たりがあって、意図を汲むのは難しかった。おすすめ商品の紹介をしている呑気な店内放送が静けさを却って際立たせていた。男も無言だった。顔は見えなかったが、ごく普通のTシャツと短パン姿で、サングラスをかけているという以外に特徴もなかった。
有馬は他に誰かいないか見回した。しかし自分の他に客はなく、元より外を歩いている人の姿もない。車が一台通り過ぎたが、影になった街並みにはめ込まれた小さなコンビニの中からでは、水槽の中の金魚から見える外の世界がちょうどこんな感じではないかと思われるほど遠くに感じられた。
奥にもう一人ぐらい店員はいないのか、伸びをしてレジの向こうを見ようとしたとき、男が振り返った。有馬はその瞬間、弾かれたように棚の裏を回ると、足をもつれさせながら店の外へと躍り出た。そしてそのまま思い切り走った。
有馬は知らない通りを全力で走った。男が追って来る気配がないのは分かっていたが、苦しさも暑さものどの渇きも無視してひたすら走った。何も考えず、何も見なかった。頭の中を全くの空白にして、身体の動くがままに任せた。愉快なわけでもなかったが、意外に気分は悪くなかった。このまま行くとどうなるんだろうな。いつかどっかで倒れるのかな。倒れる時って自分で分かるのかな。いくつかの想念はよぎったが、それらもちぎれて流れていった。
一方通行の狭い道に入ったところで、向こうから来たタクシーにクラクションを鳴らされてようやく有馬は足を止めた。汗で服はべったりと体に貼りつき、足は震えて、軽い吐き気もした。道の脇にはちょうど小さな公園があった。公園と言っても宅地の造成時に何らかの理由で取り残されてしまった猫の額ほどの空き地に、申し訳程度のベンチと小さい象の滑り台を置いただけの場所である。しかしちょうどそこは木陰になっていたので、有馬はよろけるようにその中へ入ると、ボロボロに劣化したベンチに仰向けになった。
胸が苦しかった。頭もガンガンした。目をつぶって、有馬はただ呼吸を続けた。それはまるで、保留にしていた身体の感覚たちが、一斉にそのつけを回収しに来たような苦しさだった。
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