存在しない人 19
彼は甲板へ急いだ。足の運びさえもどかしく、しつこくその存在を訴えかけてくる傷の痛みも、流れる血の生温かさも、初めて覚えるこの興奮を阻む障害としか思えなかった。今まで自分が何を探していたのかようやく分かった気がした。彼は既にそれなりに長い時間を生きた。いろんなところに行った。いろんな経験をした。だがそれはこの世に生まれ出る条件として予め用意されていた一連の月並みな課題をこなしたというだけのことで、そこに何の苦痛も迷いも喜びも悲しみも覚えず、その全てを「いろんな過去」というラベルを貼った段ボールに放り込んで捨ててしまったところで何の痛痒も感じないのも、つまりは自分の探していたものとは何の関係もなかったからだと思った。探していたものとは何か? それはつまり、乗り越えられない空気の層、あの男と自分の間にある、目に見えない空気の反発――そこまで考えて彼は思わず吹き出した。
「何だ、それは」
咳込むような笑いが込み上げた。こんな風に笑うのは久しぶりだった。初めてのことかもしれなかった。長い間誰も押したことのないボタンを押したかのように、痙攣じみた不器用な笑いは腹の奥からとめどなく溢れた。意味が分からない。職も家族も捨て、帰る場所ももうない、それが空気のためだったと? 何? その反発? ははは。可笑しくて仕方がない。どうかしている。ああ、本当にどうかしているんだ、あの女(誰だっけ?)も言っていた、あなたはどうかしている、手順だけは非の打ち所もないほど正しいけれど、だから誰もそれを指摘してくれなかったんでしょうけれど、あなたは大きくどうかしているのよ。一番大事なものが、それがなければ何の意味もないものが、その根本のところが欠けているのよ。そうなんだよ、まさにその通りなんだ(可哀そうな人、と女が呟くのが聞こえた)。まったく、どうかしているな。可笑しくて仕方がない。確かに訳は分からんよ。でもその通りなんだ。それが真実なんだ。あの女の言う大きくどうかしている部分がずっと指していた方向にはあの男がいたんだ。あの男、反発する空気をまとった自分にそっくりの男が、ずっと何食わぬ顔をして泳いでいたんだ。自分にとって一番大事なものとは、それがなければ何の意味もないものというのはつまり、あの男と自分の間にある空気の層だったということなんだな。
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