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猫が死ぬ。こうしている間に死ぬかもしれないし、しばらく持つかもしれないが、一週間後には死んでいるだろう。

感傷はない。猫にしろ人間にしろ、たぶん死というものには、本来、生とも死ともつかない中間領域に留まる時間が用意されている。その中で、こりゃ戻らないな、戻るわけないな、というのを周囲に悟らせ、余計な感傷を洗い流す。不慮の事故や進行の早い病気がつらいのはそのプロセスを欠くからで、何となくだけど、死そのものは不幸とあまり関係がないのかもしれない。

もともと、引っ越しに耐えられないかもしれないと思っていた。いっそ引っ越しの前に死んでくれたほうが楽だな、とさえ思っていた。空港まで運ぶ際中、飛行機の中、そこからの道中、もしかすると死体を運んでいるのではないかと何度も確認した。しかし何とか生きていた。夫の実家(新居が完成するまで一か月ほど滞在することになっている)に着いてからも、他の二匹の猫たちは警戒して気配を消しきっているというのに、認知症のせいなのか、怯えもせず家じゅうをよたよた動き回り、初対面の家人にも擦り寄った。でも、もともと足腰が立たなくなっていたのが、フローリング(前の家はカーペットだった)や階段を歩き回ったダメージで肩を脱臼してしまい、それは一応治ったものの、いよいよ立てなくなった。それでも元気で食欲はあったが、昨日からそれも食べなくなった。

とても立派な猫だった。板橋の地域猫の子で、猫好きの人が保護していたのを貰った。初めて飼った猫で、家に来た頃はテレビで同時多発テロの映像を繰り返しやっていたと思う。賢く、空気の読める猫で、後から来た子猫たちの世話をした。オスなのに授乳するので乳首が伸びきっていた。他の猫たちは互いにあまり仲が良くないが、この猫を間に挟めば一緒にいられた。

ちょうど私に子供が生まれて、猫どころではなくなった辺りから弱り始めた。病院に連れて行って、何か言われはしたが、歳も歳で手術などは負担もかかるし、私も乳児を連れて病院通いをするのも大変なので、家で面倒を見ることにした。しかし、もともと太り気味なくらい大きかったのが、だんだん痩せてきて、それなのに食欲だけは異様に増して、その分、下痢を大量にするようになった。嘔吐も増えた。選り好みが激しくなったので、ろくに消化もできないくせに、人の食費以上に餌代がかかるようになった。子供はひとりでに成長してだんだん楽になっていったが、終わりが見えない分、猫の介護のほうがはるかに厄介で負担が大きかった。

動けなくなってここ数日ほどは、ペットシーツの上で糞尿を垂れ流している。糞のついた足跡を気が狂ったように拭いて回っていたことを思えば、ここだけ片付ければいいので本当に楽だ。楽になった時間で、埋めるとしたら庭のどの辺に埋めようかな、そこに植える木何にしようかな、全部済んだらしばらく福岡に行こうかな、などと考えている。

猫を見る。まだ息はしている。冷淡だろうか。でも結局、猫の一生は猫のもので、私の人生は私のもので、長いこと重なっていたとしてもそれは別のものだ。一緒にここまで来たかったんだね、最後まで頑張ったんだね、などと、言おうと思えばいくらでも言えるのかもしれない。だがそんなふうに擬人化してしまうのは、却って猫の都合を軽んじているようで気が引ける。

猫が死ぬ。もうすぐ死ぬ。それ以上でもそれ以下でもない。私も今日はすることがない。花でも買ってこようかなあと思う。

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