存在しない人 4
それが間近に迫って来るにつれ、眠ったような彼の意識も次第に我を取り戻し始めた。だが尚も彼はその心の深層で、この状況を現実として認識することに抗っていたから、義務や倫理はよそに置いたまま、ただ直感的に嫌だなと思った。今までの調子で船の横を通り過ぎ、そのまま泳ぎ去ってくれないものだろうかという微かな期待さえ抱いた。だが力強いその泳ぎぶりが、彼を目的と定めていることは見間違えようもない。そのためらいのなさには、このような状況ではいつもこうしているのだと言わんばかりの妙に慣れたところがある。疲れを見せず、困っている風もなく、ただ超然と泳いでいる様は、遠目からは野生の生き物の逞しさのようにさえ見えていたのに、今は貰うのが当然と思い込んだ池の鯉のような浅ましさを感じる。こちらへ近付いてくるにつれ、男の見事な体躯も際立って明らかになってくるが、それにしても餌付けされてまるまる肥えた有様との連想を禁じ得ない。しかし彼がどんな印象を受けようとも、ただ待ち構える格好でそこに立っているしかなかった。彼は眩しげに目を細めたまま、小さな溜息を洩らした。
男はゆっくりとデッキの下までやって来た。そして立ち泳ぎをしながら、こちらが何か言うのを待ち受けるかのように、遠慮のない目でクルーザーを見上げた。促されるように「大丈夫ですか」と彼は言った。だがその声が彼の頭蓋を通り過ぎる瞬間、いったい日本語が通じるのだろうか、という疑問が湧きあがり、その語尾は曖昧に消えた。男はゆらゆらと波間に漂いながら目を見開いて彼を見つめているだけだったので、その疑いは一層募った。だが、ああこれは本当に厄介なことになった、と彼が頭を振ったその時、男は口に入った水をペッと吐き出すと、「はい」と言った。
それは例えば、電車の中で居合わせただけの相手なら、それ以上は決して踏み込むまいと思わせるようなきっぱりとした返事だった。そしてその表情にもまた、どこか人を食ったようなところがある。彼はよほどそのまま引き下がろうかと思った。だが相手はこちらを見ながらその場に留まり続けている。その真意は全く測りかねる。仕方なく彼は「何をしているのですか」と言った。
「何ってね、ハハハ」
男は白い歯を見せて快活に笑った。それは今時却って珍しいほどの、圧の強い、典型的なコマーシャルのような笑顔で、彼の視線は有無を言わさずそちらへ惹き付けられた。そして、ただ呆然と眺めているしかないその時間の中で、やがて高らかな笑い声は波間に吸い込まれ、静寂が戻り、まるでマスクを剥がすかのようにその笑顔も消えた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?