ヤモリ 35
部屋に入ると、淀んだ熱気に抱き取られるかのように包まれた。中の物はいつものように整然と収まるべき場所に収まっていて、人の入ったらしい形跡はどこにも見当たらない。直子はしばらくその場に立ち尽くしたまま周囲に目を凝らしていた。ひどく暑かった。息苦しく、眩暈もした。ふらつく身体を支えるため思わず机に手をつこうとしたが、その指先が天板に触れた瞬間、熱せられた鉄板を触ったように我に返って引っ込めた。
全てが汚染されてしまったように思われた。一見変わったところがないだけに、どこに何が潜んでいるか分からない。自らの身体の一部であるかのように馴染んだ持ち物の数々も今では得体の知れないものに見える。一息ごとに吸い込む空気の中にさえ気配が沁み込んでいるような気がする。それはまるで押し寄せた水に部屋が浸されてしまったような感覚だった。首元まで上がってきた水位の中で、時折頭まで飲み込まれながら、掴まるものもなく踏ん張っているのが精一杯といったところだった。
何なのよこれ。なんでこんなことするのよ。何の嫌がらせよ……!
身動きも取れずに歯噛みしながら、直子の脳裏には有馬の面影が浮かんだ。それはこちらを見ながらにやついている顔や、暗い道で隣を歩きながら何かをぶつくさ言っている顔であったが、顔、というほどはっきりとした細部を備えているわけではなく、一つに留まっているわけでもなかった。だって知らないもん。直子は思った。有馬のことなんて今まで意識に上ったこともない。どんな奴かなんて分からないし関係ないし興味もない。他人だ。他人の中の他人だ。他人なんだから仮に私がいつもと違うところを見せたからってあの人に私が何を考えていたかなんて分かるわけがないし、あっちも何かを考えているらしいなんてことも私には関係がない。
とんでもない思い上がりだ。自分が誰かに何かをしてあげられる、自分の力で他人の問題を解決してやれると思うなんて。(考えながら直子の怒りは次第に昂っていった。)問題は自分で何とかするしかないものでしょう。そして本質的な解決がないからこそ問題は問題なんでしょう。他の誰にもどうしようもなくて、自分一人で飲み込むしかなくて、ただそれを気にするか、しないかにしか折り合いをつける道はなくて、仮に他人がそれに気付いたとしても、手出しできないことを悟り、何も見なかったふりをして立ち去るしかない、そういうものでしょう。そんなことも分からないって、どれだけ馬鹿なの? どれだけ子供で、どれだけ甘えてるの?
その時、直子はフローリングに付いた机の跡がわずかにずれているのに気付いた。その瞬間、総毛立ち、全身の力が抜けて、直子はその場にへたり込んだ。
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