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存在しない人 6

寄せる波が船体を優しく撫でる。日差しは勢いを増している。それは妙な人質事件に巻き込まれたようなものだった。身体的な自由と立場の優劣は今や全く逆転していた。男は刃物のようなその視線を彼に突き付けたまま、会話の先を担おうともしない。永遠とも思われるような気づまりな沈黙が続いた。やがて彼の意識は次第に快い波の音と光の中に揺蕩い始めた。白くきらめく粒が集まって弾ける。幾度とないその繰り返しの中で海と空とは混ざり合い、やがて何もかもその中へと吸い込まれてしまう。足下から軽くなる。浮かんでいるのか沈んでいるのか、肉体の輪郭そのものが曖昧になってしまい、その区別も判然としない。男が何事かを口にした。

「――はい?」眠ったような意識の中で彼は聞き返した。

「いやあ」男はニヤリと笑いながら、おもねるような口調で言った。「凄いですね、このクルーザー」

その言葉が合図のようなものだった。彼は短い夢から目を覚ました。そうして開けた明澄な意識においては、この状況をいくら引き延ばしても無駄だということも、またそのための手段もないということも、動かしようのない現実に過ぎなかった。それで彼は無言のまま、ほとんど機械的な動作でデッキの扉を開けた。そしてラダーを海面に降ろした。

「いいんですか?」男はさも驚いたという風に言った。

「どうぞ」彼は扉を手で押さえたまま言った。

男は一瞬満足げな表情を浮かべた後、ためらいなく滑らかに潜水した。人に馴れたイルカのように近付いてくる男の姿を彼は無感動に眺めた。息継ぎもなしに男は昇降口までたどり着いた。そしてラダーを掴み、登る前に再び「いいんですか?」と尋ねたが、彼は肯定でも否定でもなく、ただ反応しているということを示すためだけに微かに頷いた。

男の身体が水面から現れた。その肉体は、遠目で見た印象の通り人並み以上に引き締まっているが、特筆すべきほど超人的なところもない。その一方で、疲労の色も衰弱の気配も見られない。言うなればそれはたった今プールから上がってきたとでもいうような風情で、事実、デッキに立った男が漏らした息は心地よい運動の後の深い溜息と全く同種のものだった。

彼はガラスのようなその目玉に映るがままの光景を眺めていた。何も思わなかったが、男の身体から落ちる水滴が水溜まりを作り、そこに当たる光を屈折させることだけが違和感としてぼんやり感じられたので、傍らの荷室から新しいバスタオルを取り出すと男に渡した。男は少し驚いた顔をしたが、それで何を言うわけでもなく、おとなしく受け取ると丁寧に身体を拭き始めた。



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