存在しない人 11
強風に煽られる傘を必死に押さえながら、彼はその建物を目指した。一本道から枝分かれした砂利敷きのアプローチの入口には端材で作った看板が立っていた。軸の定まらない字でHotel Sanset Hillと書いてあった。犬が吠えた。声の方を見ると、網や浮きが無造作に積まれた作業小屋の中で、繋がれた白っぽい雑種犬が跳ねていた。微かに糞の臭いがするその傍を通り抜けるとき、朽ちた民宿の看板が中に立て掛けられているのが見えた。曇ったガラス戸を押して中に入っても、受付に座った若い女は彼に気が付かなかった。二十歳そこそこに見えるその女は、熱心にスマホを見ながら、ケープの下の赤ん坊に乳を飲ませていた。
「すみません」
声を掛けても、イヤホンをした女には届かない。彼は待った。女の座るカウンターに置いてあるチラシを取った。島に新しくオープンしたパンケーキ屋のチラシだった。その時ガチャンと音がした。スマホを落とした女が怯え切った顔で彼を見ていた。
「お母さん……!」
女は喘ぐように言った。そして彼から視線を外すこともできぬまま、子供を抱いて腰を浮かせ、座っていた椅子を倒した。「――お母さんっ!!」
取り乱した女の声を聞きつけて、どたどたと奥から足音が聞こえた。赤ん坊が泣きだした。その混乱が直視に耐えず、彼は女に背を向けたが、その視線の先にもまた同じパンケーキ屋のポスターがあった。
「はいはいはいはい」と別の女の声がしたので彼は再び振り返った。そこには母親と思しき場慣れした感じの女が作ったような笑顔を浮かべてカウンターに立っていた。転がり込むように奥へ身を隠す若い女の背中がちらりと見えた。
「お泊りですか?」とその女は愛想のいい声で言った。
「はい」
女は手早く宿帳に何かを書き込むと、彼を通した。出された真新しいスリッパは非常に歩きにくく、赤い絨毯敷きの廊下で彼は幾度となく躓いた。壁には浜で拾ったサンゴや砂で作ったオブジェやハワイアン風のキルトがあれこれと飾ってあったが、安定しない電源だけは気持ちでどうなるものでもなく、全体に薄暗く陰鬱な空気が漂っていた。その暗さに隠れるようにして、女がちらちらとこちらの様子を窺っているのに彼は気付いた。
「ダイバーさん?」と馴れ馴れしく女が言った。
「いいえ」
「お仕事?」
「いいえ」
「じゃあ……」と言ったきり女は言葉に詰まった。適当な言葉が出てこないのだった。初めから何も答える気のない彼は視線を足下に落とした。スリッパの白いストライプの線だけが薄闇の中で光っていた。
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