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存在しない人 2

彼は正面を見た。そして背後を振り返った。洋上に他の異変は見られない。彼は再び自分の目にしたものを見た。船から五十メートルほど離れたところには、確かに人の頭の黒い色が見え隠れしている。彼は急いでコックピットへ移り、双眼鏡を覗いた。死体ではないようだ。溺れているようにも見えない。むしろ、規則的に振り上げられて水を掻くその腕は力強く、迷いがない。性別は男、成人、黄色人種に見えるが、その国籍までは無論分からない。彼は双眼鏡から目を外した。助ける必要があるのだろうか。急を要する雰囲気はない。この距離にあるクルーザーに気付かないはずもないのに、救助を求める様子もなければ、こちらに近付いてくる様子もない。まるでジムのプールで黙々とレーンを往復しているかのように、全く自分だけの都合に基づいて泳いでいるようだ。その時、彼の掌を伝って滴り落ちた血液が、真っ白な操縦席の座面に丸い染みを作った。傷の手当が先決だった。

ユニットバスの洗面台の前にその身を滑り込ませると、彼は整理された棚から応急セットを取り出した。傷は思った以上に深かったが、乱されたリズムを鎮める上ではむしろそのほうがありがたかった。彼は時間をかけ、指先の止血に集中した。そして手当てが終わると、白い洗面台についた幾筋もの血の跡を丁寧に拭いた。

彼は再びコックピットへと続く階段を上った。そして再び双眼鏡を手に取った。波間の男に変化はない。彼はそれを確認すると、双眼鏡を置き、ゆっくりと船を旋回させた。穏やかな波の上を滑るように船は進む。海面は丘のように盛り上がり、波間の男の身体を軽々と持ち上げる。だが男は、一枚の葉っぱの上が全世界だと信じて疑わない小さな虫のように自らの運動に専念している。彼はその傍らで船を止めた。

男は彼の接近に調子を乱されることもなく泳ぎ続けている。彼はデッキに降りた。この男に関して彼の頭には二つの考えがあった。一つはダイバーの可能性だ。本土からのアクセスは悪いものの、この海は未だ手垢の付かぬダイビングの穴場として知る人には知られている。シーズンともなると、商売替えした近くの島民の小舟が、まだ見ぬ光景を追い求める貪欲な人々を満載して浮かんでいる。だが既にシーズンは過ぎている。また、いわゆる名所と言われているスポットにも少し距離がある。何より波間に見え隠れする男の格好は、明らかに専用のスーツではない。

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