ヤモリ 42
事件の顛末はこれで語り終えた。どうと言うこともない。これがこの夏、直子に起こった取るに足りない波乱の全てであった。
直子自身はこの出来事を完全に記憶の中から切り捨て、少しの思いも残すことはなかった。しかしこの一件が今後も相似の形で繰り返され、彼女の人生の大きな傾向を示すと述べた以上、彼女のその後についても触れておく必要はあるだろう。
廊下で有馬とぶつかった時の痛みは節々にしつこく残った。それがあまりに消えないので、直子としては極めて珍しいことだが、弥生に訴えて近くの整形外科に連れて行ってもらった。しかし、レントゲンを撮っても異常はどこにも見当たらず、診察後、骨の浮いた直子の身体を目の当たりにした世話好きの看護師から別室に呼ばれ、「もう少し食べたほうがいい」と諭されて終わっただけだった。それから会計を待っている間にトイレに立ったのだが、そこで直子は自分に初めての生理が来たことを発見した。
しかしだからと言って、それで何か大騒ぎをしたわけでもなく、それを機に急に女らしくなったとか、肉付きがよくなったとかいうことももちろんない。何も変わらなかった。何の感慨もなかった。ただ空欄だったチェック項目が一つ埋まったというだけのことで、呆気ないほど彼女自身には何の影響ももたらさなかった。
もっとも、彼女が彼女自身のままそちら側へ「仲間入り」してしまったという事実は、単なる変化で済まされることではない。それは実際には、より大きく根深い問題の幕開けであり、それから数十年に渡って続くこととなる底なしの泥沼に足を踏み入れたということを意味しているのだが、この時点でそんなことはまだ彼女が気付くことではなかった。
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