ヤモリ 9

「どうしたの。気分悪いの?」
直子は何も答えず、前のめり気味にダイニングテーブルの上の一点を見つめていた。そして弥生が次の言葉を吐こうとするその瞬間、直子は弥生に視線を向けた。殺気に近い苛立ちを含んだ視線だった。弥生は手を拭いて出て行った。

これは逃避などではない。直子は考えていた。願望などではない。ただ私は現実的な可能性を探ろうとしているのだ。確かに私が見たあれは実在の質感を備えていた。あれが駆けていく時の微かな音や僅かな空気の振動も確かに私は感じたし、それをなかったものとして否定するのは難しい。あらゆる角度から考えて、私が見たものは幻とは言えない。だが、だ。万が一にしてもだ。万が言いすぎなら億分の一でも兆分の一でもいい。とにかくだ。とにかく、私が見た現実が現実でなかった可能性もありやしないか。現実に一瞬ひびが入り、別のものが混じってしまっただけという可能性もありやしないか。私はたまたまその瞬間を目撃してしまっただけという可能性もありやしないか。いいや、私は現実から目を逸らそうとしているのではない、あくまでも現実のことを考えている。万が一でも億でも兆でも、現実がずれる可能性、長い時間をかけ、目に見えないほどゆっくりと押し上げられる地中のプレートのように、現実も目に見えないほどゆっくりと歪められて、時にはわずかなひずみが生じる可能性だってあるのではないかということを考えているのだ。仮に私が何かを目撃したとしても、それはこの現実に属するものではないから、必ず向こうに引き取られる。こちらにはこちらの現実、あちらにはあちらの現実があって、そう、たまたま私が見たときはその境界にひびが入っていたけれど、そんなのはすぐに修復されて、こちらはこちら、あちらはあちら、交わることはなく、私が見たものは私の現実とは関係がなく、網戸は最初からぴっちり閉じられていて、蟻の子一匹通れる隙間もなくて、今日一日のことはすべて杞憂に過ぎなかった、ということになるのだ。それで私は、勉強のし過ぎでどうかしてたんじゃないの、などと母さんに言われて少し笑ったりして、何事もなかったかのように部屋に戻る。気分を変えるために模様替えをしてもいいかもしれない。もちろん、こんな変なことを考えずに済むように、これからは毎日網戸が閉まってるかどうかもしっかり確認することにするし、不要な時に開くことのないよう何か細工を考えてもいい。

そこに弥生が戻ってきた。直子はテーブルの木目に目線を据えたまま言った。
「……どうだった」
「開いてたけど、すこーしね。これくらい?」
そう言って弥生は指で一センチほどの幅を示した。「風で開いたんでしょ」
直子は内心の動揺を決して表すまいと、大人のような軽い咳払いをしてから言った。
「……何かいた?」
「え? 何かって?」
「何……」
そう言いかけたとたん、何かが溢れた。ヤモリ、という言葉を口にしたら最後、もうそれは取り返しのつかない現実になってしまうような気がした。情けなかった。こんなにも情けない気持ちになるのは初めてだった。直子は顔を覆うと、そのまままっすぐテーブルに伏した。

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