ヤモリ 8
塾から帰った直子を待っていたのは、夕食の支度をしている母の弥生だった。弥生は宝くじの結果を聞くかのような気楽さで「どうだった? 成績」と直子に尋ねた。直子は何も答えないままダイニングチェアに腰を下ろした。しかし弥生は血の気の引いたその顔に気付くこともなく、「先生、何か言ってた?」と弾むように言った。直子の並外れた優秀さ、真面目さは、同級生の親たち教師たちはもちろんのこと、近所の人たちにも知れ渡っている。弥生がパートに出ている郵便局でも誰かと顔を合わせればいつも話題は直子のこととなり、否定し謙遜すべくもない事実の数々を内心では誇らしく思いながら「ほんとにね、私の子とは思えなくて」と冗談めかすのが常だった。だがその一方で、どうして直子がそんなふうになったのか、直子が本心で何を考えているかなどといったことに思い至ったことは一度もなく、それゆえ直子に対する期待も、安藤らクラスメイトと変わらない、とにかく驚かせてほしい、凄いものが見たいという、どこか他人事のような無邪気な響きを帯びていた。
身じろぎもせず座っていた直子は、しばらく息を整えた後にようやくこう言った。
「網戸、見てきて」
「え? 網戸?」
「部屋の網戸。開いてないか見てきて」
直子は一息でそう言うと、これ以上言葉を続けると倒れてしまうかのように青ざめて口をつぐんだ。弥生は呑気に笑いながら「なんでよ。そのくらい自分で……」と言いかけたが、ただならぬ直子の表情にようやく気付いて料理の手を止めた。
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