ヤモリ 32

有馬は配達員のトラックの音が聞こえなくなったのを確認してから半ば無理やり立ち上がった。眩暈はするし、またどこで吐き気が戻って来るかも分からないが、恐る恐る足を踏み出してみると案外よろけることもなく歩けたので、その勢いのまま、不安定な吊橋を一気に渡っていく時のように振り返ることもなく公園から出て行った。

足取りはふわふわして、少し愉快な感じがした。子供の頃、家族で行った住宅展示場で、大きな空気入りの人形の中で遊んだ時のことを思い出した。つるつる滑るんだよな。浮かんでるみたいで、バランスが取れなくて。捕まるとこもないから皆転がっちゃうんだ。でも倒れても全然痛くないんだ。そっちのほうが楽しいから、皆ごろごろ転がるんだ。ごろごろ転がって、じたばた跳ねて――と、その時、脇を通り過ぎていく車がクラクションを鳴らした。有馬は弾かれるように壁側へよけた。「あぶねー」と呟いて、有馬は額を流れる汗を拭った。あの頃は楽しかったんだけどな。今も楽しいけど、でも何が変わったんだろうな。俺は何も変わってないつもりなんだけどな。有馬には自分の行き先のことなど頭になかった。しかし足はいつの間にかあのコンビニの方へ向かっていた。

店が視界に入ってきたところで、それまでの浮ついた気分は水を掛けられたように冷めた。外から見る限りでは、異変の気配はどこにも感じられなかった。しかし有馬は配達員の言ったことがどうしても信じられなかった。辺りの静けさも、何もなかったなんてことはあり得ないという気持ちを却って強くさせた。大変なことになっていたらどうしよう。有馬はそのまま通り過ぎたいと思った。しかし頭の中ではある声が響いていた。声、というものの誰か特定の人の声ではなく、感覚としては何かの擦れる音を聞くのに近いが、しかしそれは確かに意味を持った言葉だった。

お前のせいだよ
お前が逃げたから
すべきことをしなかったから

その声はまるで意識の深いところと浅いところ、その両方の勘所を押さえて振動のように頭の中に流れて来るのだったが、空気という外部に触れないためか、何か闇雲な、有無を言わせない力強さを伴っているのだった。

有馬はそこに佇み、不服そうな顔で言われるがままのその声を聞いていた。そして納得したわけでもなく、言い負かされたわけでもなく、ただその声から逃れたいという気持ちだけで歩を進め、怒ったような顔をして店のドアに手を掛けた。

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