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存在しない人 14

彼はあの男が岩陰に縮こまっているところを思い浮かべた。ずぶ濡れで膝を抱え、叱られた子供のように海を眺めている男は洋上に彼の船を見つけると、そこに視線を据えたまま立ち上がる。まっすぐ海に向かって歩き出す。そして疲れも迷いも感じさせない泳ぎで彼の元へと近付く。彼は再び無言のまま海面にラダーを下ろす。男は昇って来る。そして大丈夫だったかともどうしていたかとも言わずに、彼は再び着替えを取るためキャビンに入る。

「ねえ、お兄さんって何やってる人なの?」と目の前の女が言った。すかさず厨房の若い女が手に持っていた何かをドンと叩きつけた。

「お母さん、やめなって!」

目の前の女はビクッと体を震わせ目を伏せた。重い空気が流れた。赤ん坊が機嫌よさそうな高い声を上げた。やがて若い女が出来上がった食事を運んできた。若い女は無言で彼の前にそれを置くと、その足で外へ出て行った。

「すいません。愛想がなくて」年増の女はうなだれたまま言った。

「いいえ」

彼はナイフとフォークを手に取った。だが目の前の女は動こうとしなかった。彼は置かれた食事を見た。鮮やかな水色のプレートには小さなパンケーキが二枚と目玉焼き、ハム、サラダと果物が載っている。傍らに置かれたスープの器はままごとかお供え物のように小さく、その全体はあんなに険悪な空気の中で作ったとは思えないほどちまちまと作り物じみていた。

「ねえ、いつもこうなんです。あの子も大変なんだけど、そう、大変なのはあの子なんですけどね。……すいません、やっぱりご迷惑ね」

「僕は構いません」

「そうですか。本当にね、自分でも嫌になるんだけど、他に話し相手もないもんだから。小さな島でしょう。旦那も出てるし、まあ、居たってね、話なんかできるような人じゃないんだけど。この一年になるか、ああ……一年か……。たった一年……。いろいろあったんですよ、もう、ありすぎて。いや、本当に大変なのはあの子なの。私はいいんですよ……」

彼は目の前の女を通して背後の海を見た。あの男はどうしているだろう。空腹も感じず、眠りもしない男。ただ泳いでいるだけの、目的もない男。

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