ヤモリ 33
店内に客の姿はなかった。レジにも人はいなかった。静けさの中、知らないアイドルの曲だけが流れていた。そして世界がどんなに殺伐としていても、どんなに悲惨なことが起こっていても尊重されるべきはこの私なのだという暴力的な確信に基づく無邪気さを芬々とさせていた。有馬は顔をしかめた。しかしそんな風に一瞬でも気に留めただけでこの曲は光景や匂いや感触と共に記憶の中に動かしがたく刻まれることになり、その時点でこの曲の勝ちなのだった。
足下に一筋の赤黒い液体が流れてくる。見る間に筋は太くなり、多くなり、血だまりはスニーカーを浸す。ぴちゃ、と後を引くような音を微かに立て、滑らないように全神経を集中させて足を踏み出す。誰だか分からないアイドルは「君」と「僕」のことを執拗に歌いたてている。ただ自分の足のことだけを気にして慎重に棚の角を曲がる。女は身をかばうように腕を曲げたまま、棚から降ってきた菓子パンに囲まれている。何かが刺さった胸からはとめどなく血液があふれ出していて、女はあの黒々とした目を見開き、よく分からない感情をなみなみと湛えてこちらを見ている。そして再びあの声が聞こえてくる。これは他でもないお前の責任なんだよ。努力が足りないから、真面目にやらないからこういうことになるんだよ。
「いらっしゃいませー」
機械的な声で有馬は目が覚めた。女の店員はこちらに目をやることもなく、一心不乱にパンを並べていた。有馬はその場に立ち尽くしたままその姿に目を奪われていた。視線に気付くと女は怪訝な表情を浮かべてこちらを見たが、有馬は顔を逸らして通り過ぎた。
何なんだ。有馬は雑誌の棚の前をうろうろと歩き回りながら考えた。俺は見た。確かに見た。何もなかったわけはない。有馬は再びレジにちらりと目をやった。女は煙草を求める客にてきぱきと対応していた。有馬は頭の中の混乱を収めようと、興味もない雑誌を手に取った。
何でもなかったんだよ。何かあったにせよ、そんなのよくあることっていうか、あの人別に気にしないんだよ。何も感じないんだよ。どうせ何言われても分かんないだろうしさ。うん、多分そう。だから俺が何もしなかったからと言って、そんなこと気にするような人でもないんだよ。……
有馬はレジに缶チューハイを一本置いた。女は缶と有馬とをしばらく凝視した後に、流暢な日本語で言った。
「身分証をお願いします」
「……ありません」
それだけ言うと、缶をレジに置いたまま、有馬は逃げるように外へ出た。走ってきたパトカーはちょうど店の前で止まるところだった。
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