ヤモリ 4
重い足取りで家に帰ると、直子は冷蔵庫の残り物で自分の昼食を用意した。誰もいない昼間の家は静かで、時折横の道を通り過ぎていく車の音が聞こえるくらいだ。直子は努めて平静を保ちつつ、味のしない食事をとりながら、ちらりと後ろを盗み見た。部屋に続いている廊下は薄暗く、物音ひとつしない。いつもと変わらない、と直子は思った。普段と何も変わらない。つまりこれは、全く大したことではない。気にしすぎなんだ。気にするのがダメなんだ。何にも考えなければいいんだ。そうすれば何もなかったのと同じになる。その程度のことだ。そう、見なかったと思ってすっかり忘れてしまってもいいくらいのことだ。だがしかし、リビングのソファの傍らに置かれた塾用バッグを見ると、これが自分に突き付けられた紛れもない現実であるということを考えないわけにはいかなかった。
塾の時間は一時間後に迫っていた。部屋に入りあぐねたままの直子は、ソファで膝を抱えていた。テレビでは芸能人の不倫の詳報を延々と流し続けていたが、直子は目を見開いたまま、頭の中で自動的に巡っているイメージに身を任せていた。廊下を歩く。目を閉じてドアを開ける。そのまま四歩。本棚は胸の高さ。塾用のファイルは左端。手を伸ばす。掴んで取る。四歩戻る。ドアを閉める。終了。それぞれの場面はコマ送りのように再生され、幾度となく繰り返された。廊下を歩く。目を閉じてドアを開ける。そのまま四歩。本棚は胸の高さ。塾用のファイルは左端。
しかし、綻びというものは突然起こる。それは一見、突発的な事故のようだが、一番避けたいことが敢えてそのタイミングで起こるということは、無意識下の意志がそうさせた、つまり、そうしたいという誘惑に駆られたとしか言いようがない。直子は、機械的に繰り返されるイメージの中で思わず目を開いた。ファイルに手を伸ばしかけた直子の視界に飛び込んできたのは、棚板の上で手足を踏ん張り、威嚇するかのように口を大きく開いたヤモリの姿だった。それは直子に怯む間も与えず、思いもよらぬ跳躍で飛びついて、肩口を駆け上がり……
「はああああっ!」
直子は振り切るように大声を出した。一人きりのリビングにその声は吸収され、静寂は一層際立った。直子は、聞こえるか聞こえないかの音でぶつぶつ呟き続けていたテレビのボリュームを思い切り上げた。そして、まさにそれこそが今一番の重大事であるかのように、目を見開いて不倫の詳細に食い入った。
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