ヤモリ 40
賑やかだったどの教室も、その一言で水を打ったように静まり返った。何が起こったかはともかく、只事でない権幕だということだけはそれを耳にしたどの生徒にも伝わった。起こっていることの邪魔をしないように、普段は騒がしい女子たちやふざけている男子たちも足音を忍ばせて再び廊下側の窓に近付いた。そうして恐る恐る顔を出した生徒たちが目にしたのは、物凄い勢いで這っていき、有馬からシャーペンをひったくる直子の姿だった。
直子は、呆然として何も言えない有馬に向かって、周囲には聞こえない低い声で言った。
「人の物、勝手に触らないでくれる」
「ごめん。俺、そんなつもりじゃ……」
「そんなの言い訳にならないから」
有馬は口をつぐんだ。直子は顔を背け、身体を傾がせたまま、有馬などいないもののように辺りに散らばっているプリントをかき集め始めた。一刻も早くこの場を離れようと気持ちは急いて、いつものような注意深さこそ欠いていたものの、直子は集めたプリントの向きを神経質に揃えると種類順に重ねていった。それは悲壮なまでの執念だった。
……はあ?と、その貧相な背中を見下ろしながら有馬は思った。
何それ。そこまで怒る? 何だよ「だから触るな」って。「だから」って。別に俺今何もしてないじゃん。ちょっとぶつかったぐらいで倒れるそっちのほうがおかしいんだろ。
しかし有馬はそれを態度に出しはしなかった。と言うよりも、ちっぽけでひ弱で、ちょっと頭もおかしくて、見ているだけで哀れを催すほどの気の毒な変人に対し、そんな風に思うべきではないと思った。有馬は黙々と直子を手伝い始めた。それにしてもプリントは恐ろしいくらいの枚数だった。しかもそのどれもが僅かな隙間も残さず、几帳面な文字で真っ黒に書きつぶされている。やっぱりどうかしていると思った。
「ごめんね」と有馬はぶっきらぼうながらも、弱い者を労わるような口調で言った。「部屋に入ったこと、怒ってるんだよね」
直子は何も言わなかった。
「あれはたまたまでさ。俺もあの日なんであんなことになったか、よく覚えてないんだけど。でも別に、部屋に置いてある物とか見てないし、触ってもないし、触るつもりもなかったし。ただおばさんが困ってるみたいだったから手伝っただけなんだよ」
直子には振り返る気配もなかった。
「だから……ごめんね」
有馬は独り言のように呟いた。
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