一人と六姉妹の話 12
薄情かもしれないが、この光景を目の当たりにしても感傷的な気分は呼び起こされなかった。むしろ感じたのは当惑であった。一体どんな気持ちでこれを眺めればよいのか。涙ぐんだり? 元気だった頃の思い出に浸ったり? いやいや。祖母と私の間にそこまでの関係はなかった。もちろん初孫である私に対し、愛情をもって接してくれていたのは間違いない。だがその愛情は、子供の頃日常的に面倒を見てくれていた母方の祖母の、ほとんど暴力的といっていいほどの愛情、孫自身の気持ちより自分が孫を愛玩したいという気持ちが全てに優先している愛情、そういう、いわば女性性の極みのような愛情とは一線を画した、控えめで抑制的なものであった。実の息子との不思議な疎遠さが孫である私に対しても響いていたのだろうか。祖母に関する個人的な記憶はほとんどなく、焼き付いている印象はあのいやに鋭い二面性ばかりだ。
しかし、そうした関係性を顧みずとも、その物たちは何か物凄い気のようなものを放っていた。孫としてではなく、私は私としてその絶対性のようなものに打ちのめされた。多分これが身も蓋もない「答え」なのだ。各々が数十年の年月を費やし、ああでもないこうでもないと言いながら辿る数億のパターン、数十億のパターン、その全ての行きつく先はこれなのだ。その結果残されるものはこれなのだ。そう考えると、東京で私があれこれこねくり回していたこと、パソコンを前に締め切りを気にしながらひねり出していたことなど、全く他愛もない、意味もない、子供の遊びも同然だった。
ある種の空しさを感じながらその物たちを眺めた。私が二階で使っている机は、もともと祖母のミシン台のようだった。古い足踏みミシンはガラクタ置きになっている部屋で錆びつき、埃をかぶっているが、引き出しの中身はそのままだった。他の家電と違ってミシンはそう劇的に進化するものではない。だから引き出しの中の糸や針は、パッケージこそ色褪せているもののまだ使えそうな物ばかりで、しかも日頃私が使っているのと同じメーカーの物である。
――そうそう、これどうやって収納するのが正解なのか分からないんだ。ボビンね。結局ぐちゃぐちゃになるし。そして、ああ、ゴム。ゴムも買うよね、とりあえず。何センチ幅のやつ持ってるかとか覚えてないし。私も開けてないのいっぱいある。あっ、出た端切れ! 端切れは永遠に増えるよなあ。使い道もないのに捨てられないもんね(あれ、なんかこの布見覚えある。もしかするとこれ、子供の頃着てたワンピースの布じゃない?)そしてこれは……おお、型紙! やっぱこんな風に線引くのか。基本的にやり方同じだね。なになに、これは「カッポー着」。はは、そうだね、カッポーなんて字カタカナで書くしかないわな。
……何かこの人、私と話が合いそうな気がする。
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