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存在しない人 13

「危ないんだけどねえ」

テーブルに着いた彼の脇から立ち去ろうともせず、年増の女は厨房を見ながら言った。

「ああやってないとダメなんですよ。私が抱っこしても分かるの。泣いちゃって」

「そうですか」

彼は失礼にならない程度の笑顔を浮かべて相槌を打った。ただ視線だけは光の差し込む入口の方に向いていた。今日の出航は無理だろうか。とりあえず後で港の様子を見に行こう。もしかするとあの男も後を追ってこの島まで泳いできたかもしれない。

「ねえ、あの船……船っていうのか、あのなんかすごいカッコいい、船?――」

傍らの女の要領を得ない呟きに思考は中断され、彼は礼儀正しく女の方を向いた。

「――あれ、お兄さんが乗って来たんだって?」

「ええ」

彼は機械的な人当たりの良さを見せ、答えた。それを好意的な受容の証と捉えた女は「ごめんね、ちょっといい?」と断ると、半ば強引に彼の向かいの椅子に座った。

「あれで暮らしてるの?」

「そうです」

光にも目が慣れてきた。海が見える。風が白い波頭を作っているのが見える。あの合間から、あの男がこちらを見ていたりしないだろうか。またこちらへ近付いてきたりしないだろうか。

「ごめんねえ、しつこいよね。これだから田舎者はって思うよね。でも珍しいもんだから。あんなの見たことなくってさあ、皆びっくりしてるのよ。だってこの辺の人が船で暮らすったら漁に出る時でしょう。うちの旦那もそうだけどさ、むさくるしくってしょうがないもんだけど……。ねえ、お兄さん幾つ?」

「お母さん」厨房の中から若い女が低い声で制した。言われた方の女は首をすくめた。

「そうよね、失礼よね。でもごめんなさいね、私、気になったこと何でも言っちゃうの」

ははは、と彼は笑った。そして、細かいことに頓着しない、余裕ある大人の態度をその身に纏いながら、頭の中では全く別のことを考えていた。島の周りを回ってみよう。その程度なら大丈夫だろう。島の裏側は切り立った崖になっている。人の立ち入れない原生林が広がっている。あの男が世間から身を隠すことを目的として海に出ているのであれば、そしてその身の安全について少しでも考えるところがあるのであれば、そこで嵐をやり過ごした可能性もないではない。

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