ヤモリ 11

弥生は初めそれを何かの隠語かと思った。直子は姿勢を正して座っていた。泣いていたわけではないようだったが、覚悟を決めて首を差し出した人のようにその表情は硬くこわばっていて、とても聞き返せる雰囲気ではない。

弥生は必死に言葉の意味を考えた。アモリ? 守り? 何のことだろう。何も浮かばない。ああ、馬鹿だと思われる。肝心な時に頼りにならない親だといよいよ失望されてしまう。でも何のこと? 全然分からない。

「……何て?」

直子はそのままの姿勢で大きくゆっくりと息を吐いた。再び同じ言葉を口にするのは耐え難い屈辱だ。しかし、この現実から目を背けることはもはやできない。それが分かっているのなら、いくらおぞましい傷口でも刮目し対峙するほか道はないのかもしれない。直子は、この世の中全体にその事実を宣言するかのように、聞き誤りようのない明晰さで言い放った。

「部屋にヤモリが入った」

弥生は一瞬きょとんとしていたが、ようやく言葉と事実が一致したと見え、高らかに笑いだした。時折むせながらもその笑いは終わりを知らず、落ち着くまでにはうんざりするほどの時間を要した。

「あー、びっくりした!」と弥生は言った。「ヤモリ? え、ほんとに? ヤモリって、直子そんなにヤモリ嫌いだったっけ? もう母さん何か大変なことに巻き込まれたんじゃないかってほんと一瞬ゾッとしちゃったよ。ヤモリってあんた、ちょっとほんと、やめてよねそういうの、もう」
弥生は再び直子に背を向けて、鍋を火にかけた。
「大丈夫よ、ヤモリくらい。何もしないんだし、可愛いわよ。案外懐くかもよ」

「……そういうことじゃない」と直子は呟いた。しかし弥生には聞こえておらず、弥生は再び思い出したように吹き出すと「そんなこと!」と呟いた。

「そういうことじゃない。ヤモリが私の部屋にいる。どこにいるかはわからない。生きてるか死んでるかもわからない。でもいる。私の空間にいる。いるということはヤモリの意志にかかっていて私にはどうすることもできない。ヤモリに意志なんてものがあるのかどうかもわからない。ただいる。紛れもなくいる。私にわかるのはそこまでで、その先はどうしようもない」

直子の声はあまりにも低く、独り言のように落ち着いていたので、弥生の耳には届いていなかった。

「じゃあさ、バルサン焚く?」弥生はだしぬけに言った。「でもバルサンは効かないのかしらね。明日コスモスで聞いてみようか。あ、そうだゴキブリホイホイとかいいんじゃない?」

「だからそういうことじゃないんだって!!」
直子は声を荒らげた。

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