ヤモリ 41
直子の顔から痛みの色は引いていた。そもそも何の色もなかった。生命そのものを放擲しているみたいに冷ややかで、何の感情もあるようには見えなかった。だが氷のようなその下で、直子はもうこれ以上謝らないでほしいと切望していた。頼むからもうやめてほしい。これ以上謝られたら私はどうなってしまうか分からない。
我ながら筋が通ってない。怒っているのは私の方なのに。直子は自分に冷や水を掛けるかのように考えた。謝られれば謝られるほど隔てられてしまうような気がするって。自分とこの世界を辛うじて繋げている結び目が削られてしまうような気がするって。別にいいじゃん。そんなの、最初から望むところだよ。そのほうが都合がいい、余計な邪魔されずに自分のことに集中できる。他人なんて私の行く道を塞ぐぐらいのことしかしないんだからね。
有馬はもう何も言わなかった。密かな胸の内を直子にだけ打ち明けたりもしないし、そんな一面の名残などもうどこにも見当たらなかった。ただ職業的な介助者のように隣で黙々と作業をしているだけで、直子のことを気に掛けもしなかった。
それでいいんだ。っていうかもともとそういうもの。直子は思った。この人が私に近付いてきたのだってただの気まぐれだし、同じ瞬間、同じ場所にたまたま居合わせたってだけのことだ。そこに何か特別な意味を見出そうとするほど私はおめでたくもない。最初からこの人とは何もかも噛み合わなかったし、何の関係もなかった。それははっきりしてるでしょ。それを何? 私は何を望んでたというの? 何を夢見てたって? ちょっとこっちに近付いてきたからってその気になった? はは、馬鹿馬鹿しい。そんなの見当外れもいいところだから。
頭で考えるとそういう言葉しか浮かばなかった。しかしそうして自分をとめどなく罵りながら、直子はその言葉の隙間にあるものに必死で目を凝らした。澱のようなものでも良いから、何か浮かんでいないか探した。しかしそこには何も見えなかった。
プリントは元の通りに集まった。荷物をまとめている直子の横で有馬は立ち上がり、伸びをした。そして念を押すように言った。
「ほんと、悪かったね」
その言葉に直子の手は止まった。有馬はそれに気付かず、「じゃあ」と立ち去ろうとしたが、その時、直子がかすれた声で何かを言ったようだったので足を止めた。
「何?」
直子は咳払いをした。そしてからからに乾いた喉に唾を飲み込んでから言った。
「もう、私には構わないで」
一瞬の間があった。その一瞬の間、有馬の中に、直子に対する苛立ちがこみ上げてきたのが空気で分かった。しかし有馬はそれを鎮めると、いやにはっきりした口調で直子にこう言った。
「分かった。もう構わない」
有馬は直子の顔も見ず歩き出すと、元の仲間の元へ戻っていった。生徒たちがどっと笑う声を背中で聞きながら、重いバッグを引きずるように直子もゆっくりと立ち上がった。そしてよろめく足取りで、一歩一歩外へ向かって歩いて行った。やがてその姿も見えなくなり、夕日に照らされる校舎は、様々なトーンの合唱の声や、ふざけあう声、笑い声など、平和で賑やかな彩りで満たされていった。
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