ヤモリ 7
有馬と片山は、人の流れに逆らって歩いた。駅前に近付くにつれ、街は明るく賑やかになっていった。片山と話をするのは久々で面白かった。仲間内の一人が最近自転車で事故った話や彼女に振られた話など、取り留めのないことばかりだがそれがよかった。
大声で笑いながら、有馬は、これがずっと続けばいいのに、と思った。そして、なんで俺が重い気分にならなきゃいけないんだ、と自分が巻き込まれかかった顛末に腹を立てながら考えた。あの人、落ちたくて落ちたんだろ。勉強できる人はそういう考えなんだろ。有馬は蔑むかのように直子の落ちた暗い穴のことを思い浮かべた。あんなとこに落ちる奴の気が知れない。俺は嫌だ、あんなとこ入るの。将来役に立つのか何か知らねえけど、いくら何言われてもあんなとこには落ちたくない。終わりじゃん。あんな穴の先にある将来って何だよ。出口なんてないだろ、どう考えたって。
呻き声の残響は粘性の糸のように有馬にしつこくまとわりついていた。だが有馬はそれを振り切るかのように片山に言った。
「そうだ、永岡さんのバイト先覗いてみます?」
「おう、いいね」
その時だった。片山が突然、がっしりしたその右手で有馬の腕を掴んだ。有馬は驚いて片山の顔を見た。片山は日焼けした顔でいつものように目を細めて笑っている。
「そういえば永岡もさ、こないだ変な客に絡まれたときの話、めっちゃウケたんだけど」
片山は可笑しそうに話しながら有馬の腕を揺すった。ふざけているのかもしれない。有馬は笑いながら片山の様子を窺った。しかし、他愛ない話の内容とは裏腹に、片山の手にはどんどん力がこもっていく。堪えきれず、有馬は笑いながら言った。
「何すか?」
「え? 何が?」
「いや、これ……」
片山はきょとんとしている。しかし腕を揺さぶる力の強さは冗談の域を超えていた。有馬は見られていたのだと思った。
「違うんすよ」
「え?」
「俺、助けようと思ったんすよ。でも誰か他の人が来るかと思って……でも助けようと思ったんすよ。マジで」
「マジでじゃないよ」
有馬はハッとして目を開けた。傍らで有馬を揺すっていたのは祖母だった。
「早く風呂入りなさいよ。祥太が入らないとばあちゃんいつまで経っても入れないじゃないのよ」
有馬はソファで眠ってしまった自分にようやく気が付いた。時計は十一時を回っていた。
「風呂いいよ、もう」
祖母を追い払うと、有馬はしばらくそのままぼんやりしていた。激昂されるだろうという予想に反して、親は成績を見ても何も言わなかった。もはや自分は何の期待もされていないということを有馬は悟った。それは気楽で、今までの自分が望んでいた状況ではあったが、そんな思いに反して、見放された寂しさや、どこにもぶつけようのない苛立ちのようなものが内奥でくすぶり続けていることを認めないわけにはいかなかった。
だがそれ以上に有馬の心の中を占めていたのは暗い穴のイメージだった。夢というにはあまりにもリアルで、あんなところに穴があるわけがない、ましてや直子が落ちるわけなどないと分かってはいながらも、何か完全にそれを否定することのできない部分が残った。有馬は、むしゃくしゃする気持ちを鎮めるため、外へ出て自転車にまたがった。自分でも馬鹿げているとは思ったが、何もなかったことを確かめないと落ち着かなかった。
果たして穴はなかった。そりゃそうだ、と有馬は思った。知ってたけど。有馬はそう呟いて、コンビニでアイスでも買って帰ろうかと思ったが持ち合わせがないのでやめた。
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