ヤモリ 20
呟きは闇に吸い込まれ、虫の声しか聞こえない。それからどのくらい経っただろうか。何年もの時間が経過したようにも思えるが、実際はほんのわずかな時間だったかもしれない。
直子は物陰で柱にもたれて立っていた。時間の感覚を失い、何も考えていなかった。眠っていたのかもしれないが、目は開いていた。直子を散々弄んだ屈辱や焦燥や自棄や自負心の奔流は暗い海のような闇へと流れ込み、今はもう何も思わず、何も感じていなかった。辺りの不気味さや肌の露出している部分をくまなく襲う激しい痒みさえ顧みず、かといってその状況に安住しているわけでもなく、生きているのか死んでいるのかも分からない。そう、それはちょうど暗闇に身を潜めているヤモリのように直子は動かなかった。
砂利を踏みしめる音が聞こえた。その足音はゆっくりと反対側へと社殿を回り込み、懐中電灯の光の筋が裏手にあるご神木のクスノキの太い幹に当たった。直子の目は見るともなしにその光の軌道を追っていた。足音は一歩一歩探るように裏手へ回ってきた。そして、ゆらゆらと不安定に揺れながら線を描いていた光はようやく直子を捉えた。
驚いたのはむしろ警官の方だった。人のよさそうな若い警官は、見てはいけないものを見つけたような顔をしてその場に立ち竦んだ。直子は光が当たると動き出す玩具のように我を取り戻すと、自ら投降する素直な捕虜のように警官の眼前に歩み出た。そして、言葉の出てこない警官の代わりに言った。
「女の人が交番に来たんですね」
「そう……そうだよ」未だ経験に乏しい様子の警官はやっとのことで言った。「神社で不審な人を見たというんでね。君、何かあった? 大丈夫?」
「大丈夫です。名前とか必要ですよね。名前は楠本直子、住所は長尾台二丁目3の8、保護者の名前は楠本徹と楠本弥生、南中の三年二組、担任は坂本利治先生です。親の電話番号も言ったほうがいいですか」
「あ、いや……」
「事件性があるかどうかですよね。ありません。一人でここに来ただけで、何かに巻き込まれたわけではありません。家で親と言い争いになって出てきただけです。虐待を受けているわけでもありません。何なら家まで来て確認されても結構です。では」
予めセットされた台詞を機械的に繰り返しているような直子の顔を警官はぽかんと眺めていたが、直子は軽く一礼すると一人でさっさと歩き始めていたので、警官も慌てて後を追った。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?