ヤモリ 30

ううう、と有馬は唸り、身体をよじった。しかし思うように動かない。まるで誰かに肩を押さえつけられているようだ。有馬は顔をしかめたまま、細く目を開いた。有馬の身体の自由を奪っていたのは長島だった。

「何してんのお前」

有馬は言った。言ったつもりだったが口は動かなかった。長島はへらへら笑いながら、ますます押さえつける手に力を込めてくる。

「ちょっ、やめろよ」

有馬も笑った。しかし身体だけでなく、顔の筋肉さえ思うように操ることができない。長島は笑っていたが目の奥は笑っていなかった。そして、細身の体の一体どこから出てくるのかというほどその手の力も強かった。長島は嘲るように笑いながら、有馬に顔を近づけてきた。

「何やってんだって。面白くないから」

有馬はもがいた。しかし身体に力が入らない。声も出ない。しかし、無理やりキスを迫って来るかのように長島の顔はますます近付いてくる。有馬は抗った。だが必死の抵抗にもかかわらず、顔が僅かに数センチ傾いただけだった。有馬は視線を逸らせた。しかしその視界の端に映るのは、長島が着ていたTシャツの白ではなく、色褪せて赤っぽくなったポロシャツの紺色で、視線を戻すと長島の姿は塾の講師に変わっていた。

もはや視線を動かすことさえままならなかった。有馬は眼前に迫ってくる五十男の毛穴を数センチの距離で凝視せざるを得ないところまで来ていた。相手は今にも自分を食い尽くそうと、舌なめずりをしている。年季の入った歯槽膿漏の饐えた匂いが顔にかかる。有馬は死に物狂いで抵抗した。しかしそれは気持ちの上ばかりで、電源を切られたように身体は動かず、呻き声も出ず、とめどない汗を滴らせているだけだ。有馬は自分が何かを感じることを強制的にやめる方法はないか必死で探った。

何か

その時、シャッターが切られたかのように場面が途切れた。一瞬の後に再び視界が開けると、眼前に迫っているのは講師ではなく、父親の顔に変わっていて、あっと思った瞬間、目の前は再び真っ白になった。

人声だということは分かるが、言葉として聞き取ることのできない、節のついた音がぼわんぼわんと響いている。有馬はその音に意識を集中した。父親の声ではない。講師でも長島でもない。だが分かるのはそれだけで、何を言っているのかは一言も理解できない。しかしその関西風の軽快なイントネーションにはどこかで聞き覚えがあった。

誰だろう

誰だろう

誰だっけ

あいつだよ あの あいつ あの声

その時、ふっと体が軽くなり、有馬は息を吹き返してその場に飛び起き、そして視界に飛び込んできたのは滑り台で店内放送のDJの芸人が今まさに直子を犯そうとしているところで

有馬は吐いた。

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