ヤモリ 2

目を凝らしても異様なものは見当たらず、特別なものはないが何もかもスムーズで不足がない。それが直子の育った環境だった。この日は水曜日で、角の家からはゴミ袋を持ったサラリーマンが出てくる。バス停の前では赤茶けたパーマのおばさんに引率されている集団登校の小学生とすれ違う。コンビニの前を掃いているのはインド系の店員だ。新興住宅街の朝は誰もが流れるプールに身を任せているかのように自動的に過ぎていく。

直子も何も考えずに歩いた。直子はその性格からも察せられる通り優秀な生徒だったが、優秀であるということは余計なことを考えない能力に長けているということでもある。直子には、友達付き合いや体形の悩みで頭がいっぱいで教師の話が入ってこないというようなことはまずなかったし、恋愛にも興味がなかった。そういう意味では新任の教師などよりはるかに落ち着いているかもしれず、その上、そんな無関心を奇異に思われないよう、周囲に話を合わせる術さえ身に着けていた。

直子はいつものルートを足早に歩きながら、何もなかった、と思った。動悸の名残はあるが、それ以外は何も変わらない。何も見なかったし、何でもなかった。そんなことを考える必要さえない。とにかく、何もなかった。直子は今日の通知表のことや、志望校のことなど、他のことに努めて意識を向けた。

道の向こうで男子の三人組が信号待ちをしているのが見えた。直子はいつものように人懐っこい視線を感じた。視線の主は同じ塾に通っている有馬という男子だった。まともに話したこともないのに、挨拶のつもりか何のつもりか、いつもこの信号で行き合うと、半分笑っているような一瞥を直子に投げかけてくる。普段は無視して歩いていくが、この日は思いがけない声に足を止められた。

「楠本さーん」

信号が変わると、有馬は一人で直子のほうへ走り寄った。そして、立ちすくんでいる直子の怪訝な表情など意にも介さず、昔からの友達か何かのように親しげに言った。

「ねえ楠本さん、プリント終わった?」
「プリント?」
「塾のさあ、数学のやつ」

それはまさに血の気が引く思いだった。確かにそんなプリントがあった。しかしずいぶん前に終わらせてしまっていたため、その存在をすっかり忘れていたのだ。塾用のバッグにももちろん入れていない。

「ねえ、お願い。ちょっと見せてもらってもいい?」

有馬は直子の顔色に気付きもせず、馴れ馴れしく言った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?